イタリアの「合理」と「不合理」

イタリアという国は不思議な国である。えらく合理的かと思えば、不合理極まる面もある。宿のカーサ・モレッロの台所は合理的な面の代表。冷蔵庫がシンクに組み込まれていて、料理をするには便利この上ない。食材の出し入れにいちいち冷蔵庫まで移動する必要がない。また食器の収納場所がシンクのすぐ上にあり、しかも水が切れる構造になっている。洗った食器はそのまま棚に収納すればよく、シンクの上は常に片づいている状態である(写真↑)。台所が清潔で便利だと、うまいものをつくるぞ、という気分になってくる。10日間くらいはこの台所で快適に料理をした(私はもっぱら後片づけ要員だったのだが)。
カーサ・モレッロでは、2部屋を1ヶ月間借りたが、どちらの部屋も広くて、清潔で、じつに快適だった(写真↓玄関からその1部屋を望む)。

レンガ造りの、相当に年季の入った建物ながら、内装は現代の生活様式に合うように改装されている。ここにも、古さと新しさの見事な調和がある。Wi-Fiが導入されていることも有り難かった。持参したパソコンはそのままで、日本と同じように使うことができた。そして驚いたのは出入り口で、観音開きの重厚な木製ドアが、ボタンひとつで開閉できる電動式なのだ(写真↓上:カーサ・モレッロの外観。右から2つ目が出入り口/写真↓下:カーサ・モレッロの中庭。左奥が出入り口で、右が借りた1部屋)。文化財に指定されてもおかしくなさそうな扉とコンピューター制御。旧市街の古いパラッツィオ(宮殿)の内部も、このように現代的であるに違いない。

ヴィチェンツィアの街では小さな商店が健闘している。街路の所々に食料品店があり、狭いけれどもほとんどの食品が手に入る(写真↓街の八百屋さん)。

コンビニなど入り込む余地はない。一方郊外には、パソコンや電化製品も売っている大型のスーパーマーケットが1軒あった。シェーバーを購入するため一度だけ、宿の女主人の車で訪れた。店員の少なさといい、レジの無人化といい、日本のスーパーと比べても合理化が進んでいる。極めつきは総菜売場の番号制である。日本の銀行が採用しているものと同じで、コンピューターが買い物客の順番を制御している。混んでいても、天井近くの電光掲示板を見ると、あとどのくらい待たなければならないかが大よそわかる。この日はここで総菜を買い夕食としたが、嬉しいことにレストランの料理に迫る味だった(写真↓)。

スーパーの野菜・果物売場も、イタリア的合理主義の一例だろう。何よりも量り売りという精神がいい。必要な量をキチンと買えるからである。単身者も無駄なものを買うことはない。この精神を、人手をかけずにいかに実現するか。私たちは旧市街の入口にある食品中心のスーパーによく通った。野菜・果物が積み上げられている各コーナーには番号が付されている。必要な量をポリプロピレンの袋に入れ、秤にかける。その上の電子番号板の該当番号を押す。すると金額が自動的に計算され、秤の下部からシールが出てくる。それを袋に貼り付けるのである。それと大事なことは、素手で商品に触れることはないということだ。売場に置かれているポリプロピレンの手袋を用いる。煩雑なようだが慣れると何ということもない。それに、どの野菜・果物も新鮮で、しかも安い。
以上のような理由で、イタリアは結構合理的な国だと判断すると、それは一面しか見ていないことになる。電車が遅れるというのは何もイタリアだけではないらしいので除外するとしても、駅のエレベーターが故障したままというのには困った。海外旅行の荷物は20キログラム前後と重い。それを階段で上げ下げするのは本当に疲れる。ヴィチェンツィアの駅にはエレベーターが設置されているにもかかわらず、動いたためしがない。これは他の駅でも経験した。直そうという気がないのだろうか。
電車の切符は自動販売機で買うことになるが、これもしょっちゅう故障した。使い方そのものも難しく、やっと購入の手前まできてフリーズされると頭にきてしまう。日本ではもちろん考えられない。駅員に文句を言いに行きたいところだが、イギリス人の友人Pさん曰く、「これがイタリアですよ」。それで二台目、三台目を試し、やっと購入ということになる。銀行のATMしかり。イタリアの事情に詳しいPさんがいなければ、コンピューターのネットワーク不良だけでパニックになっていたかも知れない。
停電も頻繁にある。それもトイレに入っているときに電気が消えたことが3度もあった。ヴェネツィア・ビエンナーレの会場、ヴェローナのレストラン、そしてなんとミラノ・スカラ座。うろたえているとすぐに電気は点くのだが、あれはいったいどういう構造になっているのか。配電のシステムが脆弱なのだろう。
コンピューターのネットワークといい、電気の送配電といい、ことはシステムの脆弱さの問題で、これらがそのままイタリアの「不合理」につながるわけではない。しかし、その脆弱さをなんとかしなければならない、という意識はあまりないようである。エレベーターの故障を放置しているのと同根のような気がする。これはどう考えても「不合理」である。
2011年9月12日 j.mosa



