ここは行楽地なので、いわゆる大型連休の期間は、混雑を恐れて、亀のように首をすくめて家で暮らすことになる。それでも家のいたるところから見える景色は、恍惚とするほど美しい。もはやツツジは緑を増した芝生に花を散らせ、わずかに山ツツジが、新緑のなかにあざやかな緋色の綴れ織を織り成している。しかしマスメディアはあいかわらず社会的弱者に無神経に、成田空港の混雑や行楽地での「家族連れ」のにぎわいを報道しつづける。海外旅行にも行けない多くのひとびとや単身者は、こうして日本社会の表舞台から締めだされる。
昨年600周年記念に「ナショナル・ジェオグラフィック」誌が特集していたが、明の鄭和(Zheng He)の大航海、つまり。コロンブスの航海に先立つ半世紀以上も前、マジェランの船の十倍も大きな宝船など数百隻の大艦隊を従え、東南アジアからスリランカ、インド、アラビア、アフリカと七回にわたって航行し、平和裏に交易ルートを開拓した鄭和を描いたNHKの番組が放映され(5月3日)、堪能した。ルイーズ・リヴァシーズという女性ジャーナリストが、鄭和の艦隊は、中国の発明であった大砲などで武装していたにもかかわらず、互恵平等の平和な大航海であったのに、その最後の航海の40年後に行われたヴァスコ・ダ・ガマをはじめとするヨーロッパのそれは、暴力による征服と植民地化であると批判していたのが、深く印象に残った。
楽しい話題もとりあげたいものだが、5月3日は憲法記念日であるので、今回もまた憲法問題、および国会に上程される教育基本法改正問題など、硬い話題に触れざるをえない。これらについてはメンバーのあいだにも、私の主張に多くの異議があることと思う。ぜひ反論を寄せていただきたい。
憲法第九条はイチジクの葉か(5月3日 憲法記念日)
例年、憲法記念日のこの日には、護憲・改憲各派の集会が行われ、ジャーナリズムも義務的に報道や各種の主張を繰りひろげる。だがこの十年来、護憲派の主張が色褪せた新聞紙のように古び、説得力を失っているようにみえるのは、私だけの印象だろうか。
第九条の主文「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」は、現在でも輝いている宣言である。問題はその第2項「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」である。なぜなら、現在の自衛隊は事実上の「戦力」であるし、軍事同盟化しつつある日米関係は、この第2項が「交戦権」として禁ずる集団的自衛権の境界を事実上越えつつあるからである。
歴代政府が行ってきた第九条解釈の拡大(いわゆる解釈改憲)は、もはや限度に達し、いまや欺瞞とさえなりつつある。小泉政権や民主党の一部にいる新保守主義者(いわゆるネオコン)たちが改憲を叫ぶのは、この欺瞞を解消するためのむしろ当然の論理といってよい。とりわけこの論理からすれば、第2項の改訂は必須である。
問題は護憲派である。この欺瞞に目を閉じていたずらに「護憲」を叫ぶのは、たんに空念仏というよりは、この恐るべき欺瞞から国民の目をそらすある種の偽善になっているといっても過言ではない。憲法第九条は、醜い欺瞞を隠すイチジクの葉ではない。
私としては、第九条主文だけではなく、第2項を生かすためには、
1)自衛隊の縮小改編が必要であり、
2)日米関係の軍事同盟化からの脱却が必要である、
と考えている。1)のためには、小沢一郎氏が提唱する国連待機軍の創設も一案かもしれない。
いずれにせよ、護憲のためには明確な政策の変革とそのための行程表(ロードマップ)が必要であり、それについての国民的議論が要求される。憲法第九条を、イチジクの葉としてはならないのだ。
ネオコンも喜ぶ現行教育基本法?(5月5日 子供の日)
「教育基本法」改正案が国会に上程された。社民党・共産党や日教組は反対姿勢を鮮明にしている。現行法下でもすでに、国旗と国歌の学校式典での強制、最近の都教育委員会通達による教職員会議での挙手採決の禁止など、教育現場での右傾化が進んでいることが大問題である。改正案が通れば、この傾向がいっそう助長される、という主張も十分理解できる。しかし、はたして現行法はほんとうに理想的なものなのだろうか。またいわゆる愛国心条項は、はたしてそんなに危険なものだろうか。以下に検討してみよう。
現行法は前文に「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」と謳っている。まったく異論の余地のない言明にみえる。しかしこの言明をささえているのは、「個人の尊厳」を第一とする近代個人主義や、その背後にある近代の「普遍的人間性」の概念である。
教育にかぎらず、いわゆる戦後民主主義を支配してきたのは、このような近代主義的な思想であり、それが戦前体制への回帰をもくろむ復古主義を阻止する、大きな歴史的役割を果たしてきたことを認めるのにやぶさかであってはならない。だがこの思想はいまや、アメリカ的近代民主主義と新自由主義的市場経済を世界にひろめるのが合衆国の使命であるとして、イラク戦争を開始した新保守主義者(ネオコン)たちの思想、とりわけフランシス・フクヤマの思想とそう遠くに位置するわけではない(フクヤマ自身は近著『岐路に立つアメリカAmerica at the Crossroads』でネオコンからの離脱を宣言しているが)。
いまこうした思想は、少なくともわが国では歴史的役割を終え、新しい思想に取って代わられるべきである、と断言すべき時期にきている。
たとえばアメリカ・インディアンのラコタ族には、かつて近代個人主義にまさる強固な個人主義があった。部族間戦争華やかなりし頃、「今日は夢見が悪かったから戦闘には参加しない」と個人が述べても、だれからも非難されず、自由に認められた。だれも彼の部族愛や集団に対する責任感に疑いを抱かなかったからである。近代社会では、良心的徴兵忌避者でさえ、このような自由はない。
近代個人主義には、共通の宇宙論や世界観にもとづくこのような種族愛や連帯心、そしてそれにともなう責任感にまったく欠けている。現代社会に共通の宇宙論や世界観を求めるのは無理だとしても、人間の最小限の倫理にもとづく連帯や責任の意識はつくりだすべきである。事実、わが国でも災害時のヴォランティア活動などで、若者たちにそうした意識がひろがっている。この意味で、改正案前文の「公共の精神を尊び」は当然といってよい。
また同様に、前文の「伝統を継承し」についても私は異論がない。近代的立場にたつ普遍性や普遍的人間性は、歴史の進歩の頂点にあるとされた西欧近代文明の普遍性にすぎず、その蔭で多くの異文化が抹殺され、人種差別、性差別など多くの差別が生まれてきたからである。
わが国は政治・経済制度、教育制度など、制度面では西欧近代文明を受け入れてきたが、その根底となる文化はまったく異なっている。にもかかわらず、戦前よりもいっそうの「脱亜入欧」または「脱亜入米」を目指した戦後教育は、自国の文化や真の伝統──守旧派のいう伝統は、明治以後のゆがめられた伝統にすぎない──にまったく無知な日本人を育て、日本人全体のアイデンティティを危機に陥れた。 このことに対する反省として、改正案に新たに設けられた「教育の目標」が、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」としたことには、文言としてなんの異存もない。
文言としては異存がない、といったのは、たしかにこの項目がいわゆる愛国心教育に利用される恐れがあるからである。だが法律というものは運用しだいである。現行法下でも右傾化が進むのであるから、改正案そのものに「偏狭なナショナリズム教育に利用されてはならない」という項目を挿入するか、少なくともそのような付帯決議をつけるべきである。
またわれわれの文化の源泉のひとつでもあるアジアへの関心、自然の尊重と環境問題への感受性を養うなど、盛りこんでほしい要望も少なくないので、私自身としてはこの改正案に全面的に賛成するわけにはいかない。だが冒頭にあげたような諸勢力が、現行法に対する徹底した検討もなく、ただ反対を唱えるのは、はなはだ無責任であると思う。
いま必要なのは、戦後教育についての徹底した検討と、それにもとづく国民的議論である。教育基本法改正案の国会上程は、それを行うよい機会である。(Maya-K)



