旧暦の盂蘭盆会(うらぼんえ)の夜、つまり旧七月十五日の予報は曇りというので、十四夜の月をめでることにした。この季節にしては大気も乾燥し、明月(旧八月十五日の月のみを「名月」という)に近い晧々とした月が澄み切った中天にかかり、あたりの風景にまばゆいばかりの陰翳をあたえていた。昔とちがい、街路灯などの光が邪魔だが、それもほどよくかぐろい樹々の葉に隠れ、芝生の露台も、白い庭椅子や円形の机も、輝かしいほどの月影に映え、秋の虫たちの鳴声だけが静けさを破り、しばし時の過ぎ行くのも忘れるほどであった。
9・11とはなんであったか
9・11から五周年というわけで、合衆国のメディアだけではなく、わが国のメディアでも特集が組まれている。だがその多くは、被害者の視点のみを強調し、テロに対抗してブッシュ政権が発動したアフガン戦争やイラク戦争が、戦略的不手際から泥沼化し、テロの根絶には程遠い現状を嘆くだけであった。肝心の、あの事件がなぜ起こるにいたったのか、そしてテロが根絶できないどころか、ますます拡大する徴候をみせているのはなぜか、といった根本的疑問に答えるものは、私の見るかぎり、または読むかぎりなかった。
まず、9・11の犠牲者には心から哀悼の意をささげなくてはならないが、同時にアフガンやイラク、あるいはパレスティナやレバノンで、アメリカを中心とした多国籍軍あるいはイスラエル軍によって、その何倍もの無実の市民や子供たちが殺されたことに留意し、彼らをひとしく哀悼しなくてはならない。
また同時に、炎上し崩壊する世界貿易センターの二棟の塔の影像に、快哉を叫んだ多くのひとびとがいたことも忘れてはならない。彼らは、先進国のみに偏って蓄積された世界の富、国際的経済格差をますます拡大するグローバリズム、そしてその背後にあって、ときにはパレスティナに対するイスラエルのように「国家テロ」ともいえる暴虐を振るう、超大国の国家権力の威信、などなどを象徴するあの世界貿易センター・ビルディングに、潜在的な憎悪を抱いていたのだ。
そのようなひとびとがいるかぎり、先進諸国に対するテロを根絶することはできない。ではどのような対策が可能か。問題は経済や政治という外在的なものと、文化や価値観という内在的なものとにわかれるが、同時にそれら相互の複雑なからみあいにある。
経済と政治の問題
まず第一は「貧困」の問題だといわれる。たしかにそうではあるが、ODAなどの援助を増額したところで解決するわけではない。なぜなら国際的貧困だけではなく、先進諸国の国内的貧困も構造的なものであり、それが格差拡大の方向にしか機能しなくなっているからである。
つまり新自由主義的経済政策、いいかえれば市場万能・規制緩和・小さな政府という新自由主義の「聖三位一体」は、真に必要な公共投資や福祉予算、あるいは郵便に代表されるような労働集約型の公共サーヴィスを削減し、巨大多国籍企業中心という「民間」に事業をゆだねることによって、彼らに多大の利潤を生ませる構造をつくりあげる。市場万能の激烈な競争社会は、いわゆるリストラや合理化によって労働者に多大の負担を負わせ、失業者や非正規労働者を増やし、ふつうの中小零細企業や地場産業を壊滅させる。
また国際的には、無条件の自由貿易やFTA(自由貿易協定)の強制によって、いわゆる発展途上国の一次産品を安く仕入れ、二次産品を高く売るだけではなく、それによって途上国の農業をモノカルチャー(単作)化し、経済的自立の条件を奪い、ここでも地場産業を壊滅させ、失業者を増大させ、労働者にますます低賃金を強いることとなる。
このような新植民地主義的経済政策の(先進諸国にとっての)効率化がグローバリズムのひとつの目的であり、その構造化を世界銀行、世界通貨基金などが推進する。途上国の多くのひとびとの目に、世界貿易センター・ビルはそのような搾取機構の象徴に見えたのだ。
こうした構造を変革するのは政治の役割である。先進諸国が一致してグローバリズムとその新植民地主義的経済政策を終わらせ、先進国に偏った富と技術の途上国への積極的な移転をはからなくてはならない。そのために途上国に利潤を還元するフェア・トレード(公正貿易)体制をつくりあげ、グローバリズム推進機構でしかない現存のWTO(世界貿易機構)に代わり、WFTO(世界フェア・トレード機構)を創出すべきであろう。
だが先進国サミットの現状を見るかぎり、これは遠い夢物語でしかない。だがこの経済と政治のレベルでは、国際的な政治的決断と協調さえあれば、実行はけっして不可能ではないはずだ。問題は文化や価値観のレベルである。
文化と価値観
アフガンやイラクの戦争を推進したのは、ブッシュ政権の中枢にいた新保守主義者たち、いわゆるネオコンズであるが、彼らは普遍的人間性や普遍的文化、またそのイデオロギー的象徴である「自由と民主主義」を信奉する西欧的・近代的価値観の原理主義者であるといえる。そのイデオロギーを理論化したのが、フランシス・フクヤマの『歴史の終焉と最後の人間』であり、一見フクヤマの主張と対立するかのようにみえるサミュエル・ハンティントンの『諸文明の衝突と世界秩序の再形成』であった。
前者は経済的自由市場をふくめた「自由と民主主義」が全世界共通の原理となれば、「歴史」は終わり、人類の目的は達成される、というものである。後者は、21世紀に諸文明の衝突、とりわけ西欧近代文明とイスラーム文明との衝突は不可避であり、西欧世界はみずからの文明の正統性を確立し、それに備えなくてはならない、とする。1996年に出版されたこの本は、9・11やアフガン・イラク戦争を予言したとして評判となった。
だが両者は、西欧的・近代的価値観にもとづく原理主義の、楯の表裏にすぎない。それらは、異文明や異文化についての本質的な理解や認識に、まったく欠けているといわざるをえない。
たとえば「民主主義」にしても、各文化や社会にはそれぞれ固有の民主主義があった。オセアニアやアメリカ・インディアンのロングハウス(集会場)・デモクラシー──そのひとつのイロクォイ五部族同盟の議会制度はアメリカ合衆国憲法に取り入れられている──は、そのもっとも洗練された例であろう。アフガンにしてもイラクにしても、頭からアメリカ流の民主主義を強制するのではなく、部族社会を運営してきた諸部族会議(アフガンではロヤ・ジルガという)を活用し、一般民主主義と併用すれば、戦後の国家再建ももっとスムーズにいったはずである。
「自由」にしても同様である。「幸福追求の権利」としての私権の主張、また言論の主張などの自由を中心に据えた西欧的・近代的自由に対して、多くの社会では、他者の人権を侵害しない自己規制を、自由や自己実現の出発点としてきた。「神ながらの道」と仏教の影響下にあったわが国も、かつてはその典型であった。ネオコンズには、こうした理解はまったくない。
このレベルでの解決の道はまず、西欧的・近代的価値観は、普遍的なものでも絶対的なものでもなく、近い将来には時代遅れとなるかもしれないことを、十分に認識することである。そうでないかぎり、現に衝突しているイスラーム文化を理解することなどとうてい不可能であろう。
たとえば18世紀のフランス革命で唱えられた「自由・平等・友愛」の概念は、いまでも有効な普遍的概念と思われている。だがそれは、上記のような西欧的・近代的理解ではもはや普遍的ではありえない。 他者や他集団の人権を侵害しないという前提条件をきびしく設定する「自由」、差別ではなく異人種や異文化あるいは異なる性などの差異を認めあい、理解したうえでの「平等」、またフランス革命以後、西欧社会ではほとんど省みられることのなかった全人類的な「友愛」、こうした解釈がいま、一部の先進諸国の内部や、いわゆるテロ組織内部に燃え盛りはじめた人種差別やナショナリズムの偏見を超えて、人類の新しい普遍的な価値観を築く土台となるだろう。



