爽涼な大気にキンモクセイの花のかぐわしい香りがただよう。はやくもサクラやセンダンの葉が黄ばみ、散りはじめている。信州のように劇的ではないが、伊豆高原にもひっそりと秋が訪れている。 われわれは慣れてそれが当然と思っているが、わが国ほど四季の変化のゆたかな地域は世界にそうはない。
海抜約2000メートルのコロラド高原に住むホピのひとたちにとって、季節は「夏」と「冬」だけであり、1ケ月もない春と秋は、ホピ語では「夏に先立つ季節」「冬に先立つ季節」と名づけられ、その存在も確立していないのだ。摂氏40度に達する炎暑の夏(ただし極度の乾燥で日蔭は涼しい)、同じく氷点下10度以上の酷寒の冬が、この砂漠性の地の特色である。
砂漠性の気候といえば、イラクやパレスティナ、レバノンをはじめとする中東にも、きびしい冬が迫っている。肉親や家を失ったひとびとに思いをはせると、暗澹とする。
若者はなぜオウムに惹かれたか
偽グル麻原彰晃の死刑が確定した。遺族や犠牲者たちは、一刻も早い執行を望んでいるだろう。松本サリン事件の当日、私も大学宿舎で軽微な被害を受けている(数日間ひどいジンマシンに悩まされた)ので、ひとごとではない。法的手続きや死刑問題はさておき、若者たち、とりわけ幹部として死刑や無期懲役刑などで上告中の優秀な若者たちが、なぜオウム真理教という偽宗教に惹かれたのか、考えてみたい。
いま手許にないので『丸山真男手帳』の何号に掲載されていたか確かめられないが、かつてある講演で丸山真男は、オウム真理教事件は、戦時中の日本と同じく情報から隔絶された集団が暴走したものだ、と述べた。まったく違うと思う。彼らは逆に情報過剰な消費社会に生き、その経済的マテリアリズム(唯物論)に深刻な懐疑をいだき、あるいは絶望していたのではないか。
デカルト的二元論の支配する近代社会は、社会の公の場では人間もモノとして対象化されるマテリアリズムが優位に立ち、その対立物であるスピリチュアリズム(唯心論または精神論)は私の領域にゆだねられる。思想信条や宗教信仰などがそれであるが、私的領域に閉じ込められたこれらの「思想」や情念は、ときには公の領域を奪還すべく、暴走し、爆発する。
ヨーガやインド哲学は隠遁者の思想と誤解されているが、本来は修行によって身体と精神を統合し、現世を解脱した高邁な立場に立つひとびとによって、社会の改革をはかるものであった。戦いをまえにした戦士アルジュナに、クリシュナの神が説いた『バガヴァッド・ギーター』は、このことを教えている。このきびしい修行の道を選ぶひとびとのための架空の乗り物が「ヴァジラヤーナ(金剛乗)」であり、そのひとびとによって救われる大衆の乗り物が「マハーヤーナ(大乗)」である(いうまでもなくこれは仏教の思想でもある)。
偽グルは自分たちの教団は「ヴァジラヤーナ」であり、大衆の救済のためには暴力や殺人さえも許されるとしたが、これほどヨーガの思想やシヴァ神(死と再生、破壊と創造の神)信仰を曲解した教義はかつてない。にもかかわらずすぐれた若者たちがそこに惹きつけられたのは、そこに近代社会にまったく欠けた思想や哲学の原理があるのではないか、と幻想をいだいたからである。彼らの幻想は崩壊し、教団の犯罪性は白日の許にさらされた。
だが近代の消費社会のマテリアリズム(拝金主義といいかえてもよい)に嫌悪感をいだくひとびとは、経済的格差が拡大している現在、むしろ増大し、問題は深刻化ている。だが不幸なことに、こうしたひとびとを惹きつける政治的・思想的な対立軸は皆無である。いまヨーガは流行となっているが、それはほとんど健康志向や美容関心からでしかなく、脱近代の思想や哲学の探求にはほど遠い。
身体と精神はなぜ統合されなくてはならないのか。それは自分自身の「自然」を再発見し、その霊妙な仕組みを認識し、意識を媒介としてこのミクロコスモス(小宇宙)が地球を含むマクロコスモス(大宇宙)と対応していることを知ることだからである。この心身統合を体験しない自然認識はたんなる観念でしかなく、環境破壊を防ぐことさえできないであろう。またそれは、マテリアリズムとスピリチュアリズムとの分裂を再統合し、空虚な観念ではない法や倫理に裏づけられた制度的社会、また感性や情念に正当で公的な表現をあたえる社会をつくりだすだろう。
ヨーガの実践、あるいは少なくともその意味の真の理解は、脱近代の第一歩である。オウム真理教事件が開示するのは、こうした脱近代への第一歩を踏みださないかぎり、われわれを取り巻く閉塞と頽廃の壁を打ち破ることはできず、第二、第三のオカルト教団事件を妨げることはできないということである。



