まだ緑の色濃いクヌギの梢で、モズの高鳴きを今年はじめて聴く。春を告げるウグイスに対して、秋を告げる鳴声といってよい。モズはスズメより大きいが、それでも小鳥といえるだろう。まじかで見るその顔は、つぶらな瞳に刷毛で化粧したような薄紫と白の隈取(雄)で、じつにかわいい。だがみかけとは裏腹に、肉食性の猛禽であり、冬などはスズメを襲って食べたりする。私の好きな鳥のひとつだが、ときどきわが家のカミさん(青木やよひ)に似ている、といっては怒られている。
物理学の知的戦争
ニューヨーク・タイムズの書評紙に、L.スモーリンの『物理学とのトラブル;ストリング・セオリーの興隆、一科学の凋落、次になにがくるか』と、P.ウォイトの『悪いものでさえない;ストリング・セオリーの挫折と物理学的法則の統一の探求』の書評が掲載された。要するに超弦理論(スーパーストリング・セオリー)はさまざまな理論が並立し、収拾の見こみが立たない、もはや凋落の時代なのだ、という批判である。
評者トム・シーグフリードの指摘するように、これらはあまりにも早過ぎる結論であり、さまざまなストリング理論のみかけの対立は、エドワード・ウィッテンのM理論(マスターのMあるいはミステリーのMだともいわれている)仮説のように、それらの背後深くにすべてを統合する理論が存在するとして、遠からず解決されるかもしれないのだ。さらにこの日記の8号で紹介したが、リサ・ランドールのように、われわれの時空を5次元と想定すれば、多重世界問題の数学的処理もスムーズになる。
この地上でプランク・エネルギーを手にすることは不可能である、いいかえればストリングを衝突させる実験は不可能であり、それゆえ「超弦理論はもはや物理学(フィジックス)ではなく、形而上学(メタフィジックス)だ」という当初からの批判(私は超弦理論はメタ=フィジックスつまり超物理学だと思うが)に対しても、来年ジュネーヴで稼動しはじめるLHC(大ハドロン衝突器)で、その正しさがきわめて部分的にではあるが実証されるかもしれない。
いずれにせよ、「標準理論」の信奉者たちと、「超弦理論」の信奉者たちとのあいだに、中世の正統と異端をめぐる争いのように、知的覇権を賭けた熾烈な戦争がはじまっている。保守的なノーベル物理学賞は、「標準理論」の信奉者たちにしか与えられてこなかったが、この戦争の決着をどう見守るのだろう。
われわれにとってもわくわくする知的できごとである。
安倍内閣の発足と問題の所在
支持率70パーセントを超える(日本経済新聞)安倍内閣が発足した。「美しい国日本」をつくると標榜しているが、国民の私的領域にはびこる心情的スピリチュアリズムに巧みに訴えながら、それをナショナリズムに回収し、アメリカの虎の威を借りる日本大国主義に導く意図が透けてみえる。
経済的には再チャレンジと称して「格差の是正」を訴えているが、結局これもグローバリズム推進路線の軽微な修正にすぎず、国際的・国内的格差の増大に歯止めをかけるわけではない。経済史に例をみない長期にわたる超低金利・通貨供給量的緩和で、国民に支払われたはずの膨大な金利は、すべて合衆国の巨大な財政赤字・貿易赤字をささえる投資に消え、経済的にも日米の強固な同盟化が完成してしまっている。
●憲法問題
安倍内閣の目標のひとつは憲法改正であり、その前提としての国民投票法が用意されているが、この問題以上に危険なのは、「集団的自衛権は保有するが行使はしない」という従来の政府解釈(これさえも大きな解釈改憲である)をさらに拡大して、「集団的自衛権の行使も可能」という驚くべき「解釈改憲」を意図していることである。 要するに米軍または多国籍軍とともに「戦争可能」とする解釈だが、憲法改正以前に第九条改正の実質を既成事実化しようとするものである。
こうしたとめどもない解釈改憲(欧米の近代的な法的・政治的基準でも絶対に許されないことである)、日米安保条約の事実上の軍事同盟化、国防予算上のアジア有数の軍事大国化によって、憲法第九条はたんに空洞化し、歯止めの役割を失っただけではなく、諸外国からみれば、この巨大な政治的欺瞞と法的・道徳的偽善を覆い隠す「イチジクの葉」にすぎなくなっている。
不思議なことに、いわゆる護憲勢力は、憲法改正に対しては深刻な危機感をもっているにもかかわらず、憲法第九条が置かれているこの恐るべき状況にほとんど危機感がない。第九条さえ護持されれば、「戦争可能」の解釈によって戦争に巻きこまれてもかまわないのだろうか。いまや第九条の解釈、および少なくとも日米安保条約(ただちに廃棄することはおよそ非現実的だが)の解釈の初心に帰り、この倒錯した現実を徐々に第九条に合わせて変革していかなくてはならない。だがこうした問題提起をする政党さえないのはどうしたことか。
●教育問題
安倍内閣のもうひとつの目標は「教育基本法」の改正である。この問題についてもすでに日記2号で触れたが、現行の「基本法」はあまりにも安易な近代合理主義的主張しか盛り込まれていない。たとえば「個の尊厳」は謳われているが、それと均衡をなす「公共の心または精神」にはまったく言及されていないし、「普遍的文化」を称えているが、それと裏腹の「自国に固有の文化や伝統」に触れられていない。後者の教育が正確に行われるならば、そこからごく自然に「国(たびたびいうように国家ではない!)」を愛する心は芽生える。また条項として「平和教育」や「環境教育」の必要性を書きこむべきだろう。
問題はむしろ「基本法」の改正より、教育現場のはてしない荒廃である。それは、戦前の教育国家管理をそのまま受け継いだ(いいかえれば観念のみを民主主義化した)現在の教育体制と制度にあり、それを法律化した「学校教育法」と「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」の二法によってもたらされている、といっても過言ではない。
先進諸国に類をみない教育の中央集権制、初等・中等教育の徹底した画一性、政治的・思想的にきびしい教科書検定制度、自治体首長の任命制による教育委員会の専制(石原都知事下の東京の教育行政を見よ)など、これらを根本的に変革しなくては、わが国の教育の未来はない。「教育基本法」の改正問題を期に、教育改革の徹底的論議を行うべきなのだ。ここでも、ただ「基本法」改正反対しか唱えず、こうした問題提起さえしない野党の無責任さにあきれるばかりである。
諸悪の根源でもあるこの教育二法などの抱える問題点、また「教育基本法」第10条の問題などを的確に指摘している古山明男の『変えよう! 日本の学校システム』(平凡社)をお読みいただきたい。私も大いに参考とさせていただいた。



