二階にある私の書斎の東の窓から、遠く海上の大島を眺めることができる。以前はかなりの距離に立っているヤシャの大木の、葉の落ちた枝々のあいだから見ていたのだが、それが切り倒され、新築の家ができたがため、その屋根の向こうに青い島影すべてを見渡せるようになった。このあたりは国立公園指定地で、樹木の伐採もきびしく制限されているのだが、最近は樹木すべてを切り倒す違法な土地造成や建築が横行している。監督官庁はなにをしているのか。これも不動産業者という「民間」優先の小泉改革の「成果」なのだろうか。
それはともかく、その大島・三原山の左肩から昇るグレゴリオ暦2007年の「初日の出」を見ようとしたが、その時間、残念ながら茜色の空に紫のうろこ雲がたちはだかり、雲間に漏れる光芒が、ひと筋、ふた筋走るのみであった。
暮れのことだが、悲しいできごとがあった。その東の窓ガラスに二羽の小鳥が衝突し、首の骨を折って死んでいたのだ(窓に長いマフラーを吊るすなど防止策はこうじているのだが、それでもときどき起こる)。スズメよりかなり大きく、頭が黒、頬に白と緋色の模様、背や羽根は灰色、腹は白、尾の先が黒の美しい鳥であった。庭掃除にきていた庭師のひとたちにみせて名を聞いても、誰も知らないという。多分渡り鳥だろうと。もしだれか知っているひとがあったら教えてください。
被害者意識が真実を見えなくさせる
NHK・ETV特集「戦場からの報告・レバノン・パレスティナ」(12月30日)を見た。フリーのフォト・ジャーナリスト綿井健陽、土居敏郎、古居みずえの三人が、イスラエルによるガザ攻撃やレバノン侵攻の現場で撮影した生々しい映像に、解説を加えたものである。解説はNHKらしい穏健なものであったが、パン運送中アパッチ・ヘリコプターからの狙い撃ちで破壊された自動車の残骸から運びだされる、頭部を吹き飛ばされた運転手の血まみれの遺体など、目を蔽うばかりの映像は衝撃的であった。
そのなかで、イスラエルの国会議員であったマーガレット氏(男性)のことばや、反戦デモを行うごくわずかなひとびとの行動がきわめて印象的であった。国民の90パーセント以上がレバノン侵攻を支持し、イスラエル兵の犠牲が多かったのは作戦の誤りであるとして、首相や参謀総長の辞任を求め、より徹底した武力制圧を行うべきだとして首相官邸に坐りこむ右翼集団がいる状況で、反戦を語り、デモを行うのは想像を絶する勇気が必要である。
氏によれば、ナチス・ドイツによるホロコーストの記憶や、イスラエル建国後のアラブ諸国による包囲と戦争、パレスティナ・ゲリラのテロなどが、イスラエル国民に深刻な被害者意識をつくりだし、それが真実を覆いかくす目隠しとなっているという。つまりパレスティナ人の悲惨な状況や、市民、とりわけ子供や女性や高齢者に多くの犠牲を強いたレバノン侵攻の現実などは、その目隠しによってさえぎられ、パレスティナやレバノン侵攻の正当性やユダヤ民族の生き残りという「大義」のみがひとり歩きするのだという。
だがこの被害者意識による真実への目隠しは、私にとってはひとごとではなかった。現在のわが国の大多数のひとびとが、まさに被害者意識という目にみえない目隠しに囚われ、真実が見えなくなっているからである。
ひとつはヒロシマ・ナガサキの記憶である。いうまでもなくヒロシマ・ナガサキは、われわれの反戦・反核の原点であるが、それが南京大虐殺から重慶無差別爆撃にいたる加害者としてのわれわれの歴史の結果であり、一方的な被害ではなかったことを深刻に反省しなくてはならない。現行の「歴史認識」問題はまさにこれなのだ。
そしてもうひとつは憲法第9条である。いうまでもなくこれも、われわれの平和意識の原点であるが、自衛隊の拡大やイラク派兵、防衛庁の省への昇格など、問題は第9条の空洞化だけではない。日本の政治戦略がアメリカの世界戦略に完璧に組みこまれ、イスラーム世界をはじめ多くの国々への加害者の立場に立ちつつあるとき、憲法第9条はそれらの真実を民衆の目からそらさせる目隠しの役割を押しつけられはじめている。
さらに経済大国としてわが国は、アフリカやアジアのいわゆる発展途上国(私はこのことばが嫌いだが)に対する資源や経済の新植民地的収奪国として、明らかに加害者の立場に立つ。これも目にみえない目隠しにさえぎられた真実なのだ。
この現実の変革それ自体は、はるか彼方にかすむ目標であるとしても、少なくともわれわれは目隠しをはずし、真実を見つめなくてはならない。
サンテクジュペリの世界
これもすでに旧聞に属するが、昨年は記念の年というわけでもないのに、サンテクジュペリについてのドキュメンタリー番組がいくつか放映された。わが国では『小さな王子』(邦訳名『星の王子さま』)であまりにも有名だが、私にはこの作品を含め、サハラ砂漠に吹き渡る風にも似た、彼の「乾いたニヒリズム」ともいうべき醒めたまなざしが、どこまで理解されているのか気になった。
ある番組では、子供の頃、サンテクス(略称)にかわいがられ、飛行機に乗せてもらったというベルベル族の長老が登場し、彼のやさしさについて語っていたのが印象的であった。サハラ砂漠で墜落し、遭難し、ベルベル人たちに助けられて以来、彼らに人間の本来の姿をみいだした彼の「死の体験」や、二度にわたる凄惨な世界大戦の経験が、西欧の近代に対する深刻な反省と、近代の外に身を置く彼の「乾いたニヒリズム」をもたらしたように思う。
その醒めたまなざしが、象を飲み込む大蛇(『小さな王子』)といった奇想天外なイメージの笑いや、ドイツ空軍の制空権下、高高度を飛ぶ偵察機の死と背中合わせの状況に、乾いた笑いを誘う場面(『戦時操縦士』邦訳名『戦う操縦士』)を描きだす──
《準備はできた。われわれは機上だ。残るは伝声管のテストのみ…
「聴こえるか、デュテルトル?」
「聴こえます、大尉」
「それからあんた、機銃手、聴こえるか?」
「自分… はい… いいです… 」
「デュテルトル、機銃手が聴こえるか?」
「聴こえます、大尉」
「機銃手、デュテルトル中尉が聴こえるか?」
「自分… はい… いいです… 」
「なぜいつもあんたは、自分… はい… いいです…なんだ?」
「鉛筆を探していますんで、大尉」》
伝声管を通じたこの最初の会話が、離陸したあとの緊迫した機上の会話:「鉛筆はみつかったか?」「はい」などに引き継がれ、ドイツ空軍の戦闘機発見など、切迫した描写にはさまれるがゆえに、思わず人間的な笑いを誘う。
『戦時操縦士』は、スタンダールの『パルムの僧院』などと並んで私のもっとも好きなフランス文学作品のひとつだが、その最大の理由は、人間が操縦可能であったもっとも洗練された航空機の時代に(いまは操縦士でさえもコンピュータに制御されている)、それがもたらしている惨禍を見据えながら、一万メートルの高度よりはるか彼方の天空から近代文明をまったく相対化して見る、あるいはある意味でベルベル族よりも劣るものとして見る、サンテクスのこの「乾いたニヒリズム」にある。
遺作『城砦(シタデル)』は、難解でいささか冗長ではあるが、この彼の思想を敷衍したものである。コルシカ島沖で、ドイツ空軍のフォッケヴルフ戦闘機に撃墜され、戦死したフランスのこの「国民的英雄」は、その虚像としての仮面の下に、深い思索者としての相貌を隠しもっている。



