伊豆高原駅前の大寒桜(オオカンザクラ)の並木が満開となり、薄紅色の花々の蜜を吸いにメジロやヒヨドリがやってくる。メジロを知らない若い女性観光客などが、「あ、ウグイスだ」などと声をあげ、笑いを誘う(メジロは派手なウグイス色で、ウグイスはもっと地味な灰色である)。
早朝わが家の裏の森から、ウグイスのためし鳴きが聴こえ、夢うつつに早春の雰囲気を楽しむ。
江田三郎について
若い世代はもはや知らないだろうが、江田三郎という政治家がいた。かつて日本社会党の書記長や副委員長を務め、社会党の将来をになう最高の人材とされながら、党の主流からは徹底的に疎外され、委員長(党首)になることもなく、1977年に離党して結成した「社会市民連合」の旗揚げとほとんど同時に肝臓癌で病没した。社会市民連合は子息の江田五月に受け継がれたが、後、社会党の離党者たちを含め「社会民主連合」と名を変え、田英夫が代表になるとともに、しだいに小既成政党化し、政治の激動の谷間に埋没してしまった。もし江田三郎が生きていれば、その後の社会市民連合も、日本の政治の局面も、大きく変わっていたかもしれない。江田三郎はそれほど大きな影響力のあるすぐれた先駆的政治家であったのだ。
今年は彼の生誕百周年と、没後30周年でもあるので、彼の業績を称え、そこから日本の政治のたんなる回顧ではなく、将来の展望を含めた本を編纂する計画があるようだ。彼の離党と「社会市民連合」結成プランのシナリオを描き、その推進者でもあった私に、その本のためのインタヴューに応じてほしいという依頼が江田五月からあり、参議院議員会館に出向いて、北海道大学の山口二郎教授をはじめとする編纂委員にインタヴューを受けることとなった。
江田三郎との出会いや交流、社会市民連合結成までの経緯は、私の自伝『風と航跡』(2003年藤原書店)に書いたので繰り返さないが、彼に進言し、また討議した基本政策が、いまでも先進的なものであったと自負しているので、それを簡単に記しておこう。
いまは取り壊されてないが、相模湾を望む瀟洒な南欧風の熱海ホテルや、森のなかの箱根の旅館などで、彼と当時公明党書記長であった矢野絢也や民社党副委員長の佐々木良作、あるいは当時岐阜経済大学教授の佐藤昇など学者を交え、政策作りの合宿が何度か行われた。水俣病をはじめ、すでに公害問題が激化し、原子力発電への反対運動が高まり、あるいはローマ・クラブの報告書『宇宙船地球号』が大きな話題になりはじめていた時代でもあり、われわれの政策も、高度成長や経済優先政策への根本的反省を中心に据えていた。
たとえばエネルギー問題では、少なくとも21世紀の初頭までに原発を廃止し、その約30年のあいだに太陽光・風力・波力などによる発電、地熱または高温岩体発電(地熱は火山地帯だが、一般の山岳地帯でも10キロほど地下には高温の岩石体があり、その熱を利用して発電する)、小規模水力発電、バイオマス発電やその燃料化、水素エネルギー利用の研究など、自然エネルギー・地域エネルギーの開発に大きな予算を投入すれば、原発に代替するエネルギーをまかなうことができる、とした(こうしたエネルギー開発は近年までほとんど行われなかった)。
江田三郎はわれわれの意見に全面的に賛成してくれたが、あるとき「きみたちの政策には農業問題が欠けているよ」と、ぽつりと語ってくれた。農民運動家として出発した彼らしい発言であったが、このことばはほとんど啓示的であった。なぜなら、こうしたエネルギー開発は農業をはじめとする第一次産業再開発と不可分であったからである。私は急遽、村落を単位として、バイオマスの処理と関連する堆肥や有機肥料の生産プラントの構築や、それに対応した農業機械の開発やその共有制など、つまり高度な機械化・省力化で有機農業を行う農業共同体構想をまとめあげた。
私が中心になって作製した教育・文化政策にも、今日の安倍教育改革に反対する強力な理論的・実践的支柱があったと思っている。
江田三郎の死とともにすべては瓦解してしまったが、こうした政策が30年前に実施されていたらと、歴史にifはないと認識しながらも、むなしい思いにいまも囚われている。
ペプシ・コーラと黒人たち
もはや60年も前となる。骨格のみをとどめる黒焦げのビルディングや、瓦礫と灰の廃墟がつらなる都心の街路に、襤褸をまとったひとびとの往来に交じり、緑色の略式軍服と先端の尖った制帽に身をかためたアメリカ兵たちが闊歩していた時代である。PXと称する軍とその家族のための食料や雑貨の供給組織があり、焼け残った百貨店などが接収されてその販売所となっていた。旧宝塚劇場も接収され、沖縄で戦死した新聞記者の名を冠したアーニー・パイル劇場となり、彼らのためのショウを行っていた。その地下に開設されたPXのスナック・バーに職をえて、16歳の私は約一年半「トラッシュ・ボーイ(掃除雑役夫)」として働いていた。労働はきびしかったが、餓死者や凍死者の遺体が街路に放置されているような日々に、朝の掃除のあとふるまわれる、前日の売れ残りのハンバーグをほぐして熱湯にぶち込んだスープと、同じく売れ残りの固くなったパンというブランチは、応えられない贅沢であった。
ハンバーガーやコーラ、ポップコーンやアイスクリームというスナック・バーおきまりのカウンターに、日曜・祭日(もちろんアメリカの)ともなれば兵士たちの長蛇の行列ができた。そこで私はふしぎな光景を観察した。つまりコーラ売り場にはCokesとPepsという水色のネオンサインが掲げられていたが、なぜか白人兵はかならずコカコーラ、黒人兵はかならずペプシコーラを買って飲むことであった。ペプシのややきつい香料が黒人の口にあうのかな、としか考えられなかった。
白人将校はもちろんのこと、下士官や兵士も日本人を一段と見下すか、あるいは保護者的親切さで接するかのいずれかであったが、黒人兵だけはたんに陽気でおおらかだというだけではなく、日本人を対等に遇して、しばしばわれわれを感激させてくれた。たしかに英語の訛りが強く、「ギミ・ワラ(Giv’me water)」などと、馴れるまではなにをいっているのか理解不能なことが多かったが。
あの親しみやすい黒人兵たちが、なぜペプシコーラしか飲まなかったのか、60年後にその謎が一挙に解けることとなった。「ニューヨーク・タイムズ書評紙」に、ステファニー・キャパレルの『ペプシのほんとうの挑戦』(Capparell,Stephanie. The Real Pepsi Challenge)という本の書評が掲載されたからである(Feb.4,’07)。
それによれば、1938年ペプシの社長が交替し、気鋭の若手でリベラルなウォルター・マック・ジュニアが就任した。彼は売上高でペプシの26倍もあった(1939年)「巨人ゴリアーテ」のコカコーラに果敢に挑戦するダヴィデを自負し、価格の安さで貧困層に人気のあった自社製品を、積極的に黒人層に売りこむ戦略を立て、広告にも黒人モデルを起用した。1940年の写真ポスターで、ペプシの大瓶に手を伸ばしている利発な黒人少年は、のちにクリントン政権の商務長官となったロン・ブラウンであった。
戦後マックは、黒人の地位向上を目指す「国民都市同盟National Urban League」の幹部エドワード・ボイドを雇い、その戦略を任せた。ボイドは多くの黒人セールスマンを雇い、南部の各州や北部の大都市で売上を増大させた。
1950年、コカコーラが地元ジョージア州の知事選で、人種差別主義者の候補に巨額の献金をしたことがきっかけで、黒人たちはコカコーラ・ボイコット運動をはじめるにいたった。
私がPXで働いていた1946・7年にはまだボイコット運動は存在しなかったが、黒人兵の行動にはこうした社会的背景があったのだ。たしかにそれは、コカコーラに対抗するペプシの商業戦略にすぎなかったかもしれない。だが人種の壁を超えることがきわめて困難であったあの時代に、その壁にあえて挑戦した白人ウォルター・マック・ジュニアの先見の明は、高く評価されてしかるべきである。



