集中しなくてはならない仕事があり、約1ケ月ご無沙汰してしまった。そのあいだに春は過ぎ、初夏の陽気となったが、今年の伊豆高原の春は奇妙というより異常というほかはなかった。東京より一週間も遅れてソメイヨシノが咲きはじめたが、満開になるまえにすでに葉が伸び、散る頃は葉桜となっていた。同時にツツジが咲きはじめ、4月上旬には紅や白い花々の満開となったが、いまは見る影もない。新緑が美しいはずの連休は、もはや新緑でさえなくなっている。異常気象というより地球温暖化の恐るべき徴候のひとつであろう。ただこうした異変にも野生の山桜類は強く、今年も白や淡紅色の花々や枝垂桜など、みごとな枝振りを披露してくれた。ヴィラ・マーヤの白山桜も、朝日を浴びて純白の花と透明な緑の葉をきらめかせ、心に染みる風景をくりひろげてくれた。

敷島の大和心をひと問はば、朝日に匂ふ山桜花

の本居宣長の歌もかくやと……

複合型ヘイト・クライム(憎悪犯罪)

 アメリカ・ヴァージニア州のヴァージニア工科大学で起こった殺戮事件が話題となった。学生・教授32名が殺され、十数人が負傷するという、かつてない規模の学校乱射事件である。

たしかにその背景のひとつは、軍や警察の銃器をはるかに上回り、約2億挺といわれる民間の野放しの銃所有にある。20年以上もまえだが、ニューヨークからダラス経由でアルバカーキーに向かう機中で、隣のビズネスマンらしい白人男性が「ニューズウィーク」誌を熱心に読んでいた。私がときどき視線を走らせたためか、彼は「読むか」といってそれを貸してくれた。凄惨な写真が多く入った銃犯罪の特集であった。恐るべきアメリカ社会の一面をかいまみて読み終え、返却すると、日本では民間の銃の問題はどうなっている、と聞かれた。民間では銃の所有は禁止されている、だから凶悪犯罪の発生率はアメリカと二桁も違う(当時)と答えると、うらやましいと嘆息された。

周知のように合衆国では、銃の所有は憲法修正第2条で保証された個人の権利である。だが乱射事件があいついだ90年代、クリントン政権は世論の高まりを受けて、自動小銃や半自動小銃など殺傷力の高い銃の販売を規制する法を通過させたが、数年前、共和党の支配する議会で規制法は更新されず、失効してしまった。いまや逆に、銃犯罪が多発するがゆえに銃で身を護ろうとする世論が強く、民主党多数の議会でも銃規制法をあらためて審議する気配はない。

しかし今回の乱射事件は、たんなる銃の問題ではなく、現在のアメリカ社会を内面からえぐるような複合型ヘイト・クライムといえる。

イシュマエルの斧

 事件を報道する毎日新聞の記事で、現地にかけつけたある特派員が、NBCテレビに送られた容疑者の資料に「自殺した容疑者の腕に書かれたのと同じ、Ishmael’s Ax という意味不明の署名がされていた」と述べていたが、「意味不明」とは驚くほかはない。

『聖書』の「創世記」に登場するイシュマエルの名はアメリカでは子供でも知っているし、わが国の高校生向けの英語の辞書にも載っているほどである。アブラハムの子であるが、エジプト人の妾に産ませたとあって正妻に追放され、転じて「放浪者、社会ののけ者」などの意味となった。これが事件のキーワードなのだ。

ひとつは人種問題である。かつてはそれは固有に黒人問題であったが、いまや非合法移民が圧倒的に多いヒスパニックと、近年急激に増加したアジア系移民が標的となっている。イラク戦争の泥沼化で募兵が困難となった陸軍や海兵隊が、永住権や市民権をあたえる約束でこれらの移民に入隊を勧誘しているのも、この問題の一端といえる。

遅れてやってきた彼らは、地域にコロニーをつくり、固有の風俗習慣や共済の仕組みに守られて生活していて、カリフォルニア州南部などでは、逆にスペイン語が話せなくては満足な買い物もできないほどである。だがそうでない地域では、彼らはたんに少数民族であるだけではなく、まさにイシュマエルなのだ。法や意図的差別に苦しんだかつての黒人たちとは異なり、無意識の差別の厚い壁がたちはだかる。無意識であるだけに、その差別は深く隠され、深刻なものとなる。

もうひとつは格差問題である。もともと経済的格差のはげしいアメリカ社会であるが、グローバリズムがそれをいっそう掻きたて、あたらしい移民たちをワーキング・プーアという階層に組みこみ、労働搾取の対象とした。チョ・スンヒ容疑者の父は、週給2百数十ドル程度のクリーニング店の店員であり、州立とはいえ大学に息子を通わせるには、かなりきりつめた生活をしていたはずだ。このようにあたらしい移民たちは、経済的にもイシュマエルであったのだ。

人種差別のイシュマエル、経済格差のイシュマエル、その意識がチョ容疑者を責めたてる。もちろん白人女性からストーカーとして告発された恨みも、その火に油を注ぐ。こうして「多くのイシュマエルたちに代わって斧を振るう」という倒錯した英雄意識が生まれる。

さらにイラク戦争の影である。私がしばしばアメリカを訪れていた頃、急激に銃による凶悪犯罪が増加したが、明らかにそれは、ヴェトナム戦争末期の荒廃した人心の反映であった。いままた、イラク戦争が巨大な影を落す。テレビで日常的に放映される銃撃戦や白昼の爆弾テロは、殺傷に対するひとびとの感覚を麻痺させる。

「イシュマエルの斧」事件は、このように、起こるべくして起こったのであり、現在のアメリカ社会の内面を、裏側から照射する象徴性を帯びている。