まばゆい新緑といいたいが、すでに緑は深い。ただヤマツツジのみが、緑一色の風景に緋色の花の鮮やかな点描を映しだしている。ウグイスやメジロ、イソヒヨドリやコジュケイ、コガラやヤマガラなどの歌声はいま盛りである。すぐにホトトギスが鳴きはじめるだろう。
冬のあいだ餌の足しにと、露台の突端にリンゴなど果物の皮や切れ端をだしておいたが、それがヒヨドリたちの独占物になったらしく、交替で何羽もやってくるようになった。とりわけ頭の毛羽立った一羽の若い雄がなついてしまって、朝庭椅子の肘掛けに止まり、ガラス戸越しにわれわれに催促のけたたましい声をあげ、ガラス戸を開け、食べ物を運ぶと回りを嬉しそうに飛び跳ねるようになった。ヒヨドリは害鳥として嫌われているが、こうなるとかわいい。
不毛な選択――フランス大統領選挙
フランスの大統領選が終わった。予想されたようにニコラ・サルコジ候補が選ばれ、フランス初の女性大統領かと注目されたセガレーヌ・ロワイヤル候補は、約200万票の差で敗れた。
私個人としてはまだロワイヤル候補のほうがましかと思っていたが、いずれにせよこれは不毛な選択としかいえない。極右のルパン候補は論外としても、バイルー候補の主張も苦しい妥協路線でしかなく、だれひとりとして新鮮な路線や政策を提示するものはいなかった。
いうまでもなくサルコジ路線は、一周遅れの「小泉改革」であり、新自由主義経済のグローバリズムに追随する激烈な競争社会を到来させるものである。サッチャーやレーガンの「新保守主義改革」からみれば、四周も五周も遅れた軌道にフランスを乗せようとするものといえよう。
労働条件は過酷となり、貧富の格差は拡大し、移民たちをワーキング・プーアに追いこみ、社会福祉予算の削減は必至となる。労働組合や学生運動も強く、移民たちの不満も限度に達しているフランスでは、この路線の強行は激烈な反対運動を生み、かつての「フランスの五月」に似た大きな騒乱にいたるかもしれない。
だがロワイヤル候補の唱えた福祉国家路線も、現状維持にとどまればまだましだが、文明論からみても産業構造そのものが大きな転換点に達している現在、経済の長期的な衰退に向かわざるをえない選択である。
福祉維持の財源も、北欧モデルに追随するなら大幅な増税しかありえない。労働条件や福祉の充実、および移民や社会的弱者の救済はいうまでもなく必要だが、新エネルギー開発をはじめ産業構造そのものの転換をうながし、世界経済の反グローバリズム的転換をなしとげる方向で生産と雇用を創出しないかぎり、そうした目的は達成できない。
だがこれはひとごとではない。われわれ自身の選択として突きつけられる問題だが、この夏の参議院選に斬新な路線や政策を掲げる党は皆無であり、ここでも不毛な選択を強いられることになる。
敵がみえない――不毛な憲法論争
五月三日の憲法記念日は六〇周年とあって、メディアに多くの論調や特集が登場した。だがそのほとんどは、これも不毛な選択としての改憲論と護憲論の対立であり、第九条擁護の立場でも、目の醒めるような論議はほとんどなかった。
憲法をめぐるこの知的不毛あるいは頽廃は、改憲論・護憲論ともに同じ近代主義的な土俵での戦いにすぎないことに由来する。すなわちそれは、近代文明を前提とし、その枠内でのイデオロギーの優劣の争いである。
近代文明を前提とするかぎり、その究極の姿といえるグローバリズムを克服することはできない。グローバリズムとは、世界史上かつてない資源と市場の激烈な争奪戦であり、その延長上に人類の未来はないといってよい。
このグローバリズムの覇権争いのなかで、日本の立場は微妙な変化をとげつつある。すなわちかつてはそれは、アメリカ/EU/日本の三極での争いであり、福田ドクトリンに代表されるように、アジア諸国とのゆるやかな経済的連携のうえに一極を担おうとする姿勢が、保守本流とよばれる政権にはあった。覇権争いのなかではもっとも賢明な選択といえよう。
だがバブル経済の破綻後、国内問題に忙殺され、わが国は政治的にも経済的にも国際貢献という大国の責任を見失い、「失われた十年」を自閉して過ごすこととなった。その後アメリカ主導のグローバリズムに乗ろうという「小泉改革」の結果、保守本流路線は放棄され、政治的・軍事的・経済的日米同盟強化の方向に大きく舵は切られた。つまりもはや三極ではなく、グローバリズム覇権争いではアメリカに加担し、追随しようというのである。
そのうえ拉致問題以来マスメディアが煽りたてた「北朝鮮脅威論」がある。その「軍事的脅威」に対抗するためには、自前の核武装であれ、アメリカの核の傘に頼るのであれ、とにかく憲法九条の廃止または改革による集団的自衛権の行使に道を開かなくてはならない、という論理となる。この論理が自衛隊イラク派遣や防衛庁の省への昇格、集団自衛権行使問題の研究会設置などの一連の動きを生んだ。
要するに、アメリカ主導グローバリズムの肯定は日米同盟強化につながり、それは必然的に憲法第九条の改憲をもたらすのだ。
この道は東アジアに強度の国際緊張をもたらし、北朝鮮にとっても、米軍基地があるという点で潜在的な敵であった日本を、顕在的な軍事的敵と化す危険をはらんでいる。つまり保守路線としてもそれは最悪の選択というほかはない。
だが護憲論の側からは、この現実がまったくみえていないように思われる。憲法第九条さえ護られるなら、わが国の進路はどうでもいいのだろうか。第九条をめぐるこの危機的状況をもたらしている根源にメスを入れ、その変革の方向を明確に示すような政党は出現しないのだろうか。
あるテレビ番組でワーキング・プーアの若者が、このどうしようもない閉塞的状況を打破してくれるなら戦争でもやむをえない、そのために改憲は必要だと語っていたが、自分の首を締めつけている敵がこのグローバリズムであることを理解すれば、その言動はおのずから異なってくるはずだ。
改憲派にも護憲派にも、敵はみえないのだ。



