ふたたびヤマユリの季節が巡ってきた。絢爛とした白い大きな花弁、むせかえるような豪奢な香り、これが栽培種ではなく、『古事記』や『万葉集』の昔から山野に自生していたなどとは信じがたいほどである(すでに述べたように古語ではサヰといい、群生する河原に流れる川はその姿からサヰ川と呼ばれ、狭衣川、狭井川、犀川などと当て字された)。群生というほどではないが、ヴィラ・マーヤの庭にも咲き乱れている。風で倒れかかったわが家の数本を花瓶に挿しただけで、家中が香りに溢れ、気分までが豪奢になる。
欧米がもたらしたパレスティナの悲劇
ハマスとファタハという二派の対立の激化で内戦状態になっていたパレスティナのガザ地区は、ハマスの治安部隊と武装勢力による制覇で、一応収束した。自治政府のアッバス議長は、ハマスとファタハの連立内閣を強制的に解散させ、ファタハ単独内閣を樹立した。ハマスが排除されたとして、欧米はパレスティナというよりもアッバス議長への援助を再開し、ガザを孤立させようとしはじめている。まったくの愚策というほかはない。
そもそもパレスティナに近代民主主義を持ちこみ、選挙を奨励したのは欧米ではないか。国際監視団が保障した公正な総選挙の結果、ガザに限らず民衆は、腐敗したファタハに替わって医療と福祉で民衆に貢献するハマスを選択したのだ。ハマスを「テロリスト集団」としてその結果を拒否した欧米、とりわけ合衆国は、みずからの提唱する「民主主義」に二重基準(ダブル・スタンダード)を持ちこみ、民主主義そのものを否認するという巨大な矛盾を背負うこととなった。そのような「民主主義」を世界のだれが信じるだろう。
さらにファタハでさえ、かつて欧米にとってはPLO(パレスティナ解放機構)という「テロリスト集団」にほかならなかった。数々の航空機ハイジャック、ミュンヘン・オリンピックでのイスラエル選手銃撃事件、テル・アヴィヴ空港での無差別乱射事件(日本赤軍によって実行された)など、アラファト議長の主導下で行われた事件はまだ記憶に新しい。
最終的にはパレスティナに独立国家としての地位をあたえよ、という国際世論とその努力が、長い年月をへて自治政府を誕生させ、ファタハを合法的な統治集団と化したのだ。たとえハマスが「テロリスト集団」だとしても(私はそうは思わないが)、彼らを正当な統治集団として認めることが、逆に彼らを国際的に責任ある政治集団に育てあげることとなる。中東ではわが国は、こうした方向にむけてパレスティナを中心に、欧米やアラブ諸国、あるいはイランなどとを仲介する絶好の立場にある。だがそうした理念はおろか、政治的嗅覚さえないのが日本政府とその外交なのだ。いつものことながら、「情けなさに涙こぼるる」である。
ニュールック・ボナパルトとしてのサルコジ大統領
フランスの新大統領サルコジ氏の『回想記』──通常は大統領を退任してから書くのだが、これは彼の個人的な記録である──ともう一冊の本が、『証言』(Testimony)と題して英訳された。フランスの哲学者ベルナール = アンリ・レヴィによる書評がニューヨーク・タイムズ書評紙に掲載され、話題を呼んでいる(July 22, 2007)。
かいつまんでいうと、かつては非共産党左翼に位置し、その後かなり右寄りの路線に転じたレヴィであるが、その彼がサルコジ氏を「ニュールック・ボナパルト」と断じ、その選出を、「これはある社会運動、疑いもなく野蛮で、暴力的で恐るべき社会運動の開始」の徴候であるとしている。
その理由は、この『回想記』で触れられているフランスの過去の歴史の評価にある。つまりサルコジ氏は、対独協力者のヴィシー政権にはホロコーストの責任はほとんどないとし、アルジェリア独立戦争でのアルジェリア人の虐殺や拷問は「(アルジェリアの)文明化の過程で起こったこと」と免罪し、若者や労働者たちの反乱であった1968年の「フランスの五月」は記憶ともども一掃すべきだとする。この本に書かれているわけではないが、われわれにも周知の2005年秋、移民の若者たちによるアルジャントゥイユの暴動では、彼らを「(社会の)カス野郎ども」と呼び、「あいつらを片付けるのが私の使命だ」という有名な暴言を吐いた。
この書評には、マーク・アレイリーの肖像画がつけられている。つまり頭部は横目で睨みつけるサルコジ氏、胴体は懐に手を入れ、勲章とサーベルを下げるナポレオンという卓抜な絵で、思わず笑ってしまう。だがフランス人にとって、これは笑いごとではない。
CIA抱腹絶倒物語
CIAつまりアメリカ合衆国の中央情報局は、かつては泣く子も黙る恐るべき有能な情報機関として、イギリスやイスラエルなどのライヴァル機関には一目置かれ、かつての敵ソヴェトや東欧の情報機関などには徹底的に憎悪された。
アメリカ国民の巨額の税でまかなわれるこの巨大組織は、アメリカの安全保障には不可欠の組織として国民に容認されてきた。だが、はたしてそれがこの巨費に見合う働きをしてきたか、むしろ無能でときには間抜けであったのではないか、と、情報公開法によって明らかにされた過去の膨大な資料をもとに告発する本があらわれた。
ニューヨーク・タイムズ書評紙の同じ号に掲載されたティム・ウィーナーTim Weiner(ザ・タイムズ誌CIA担当記者)の『灰の遺産――CIAの歴史』Legacy of Ashes;Historyof the CIAである。
彼によれば、CIAは戦後の重要な局面転換、たとえばソヴェトの核実験(1949)、北朝鮮による朝鮮戦争の開始(1950),ハンガリー動乱(1956)、キューバ危機(1962)、5回にわたる中東戦争の勃発(1970年代)、ソヴェトのアフガニスタン侵攻(1979)、イラン・イスラーム革命(1979)、イラクによるクウェート侵攻(1990)、インドの核実験(1998)など、どれひとつとして予知することはできなかった。
イラン革命時に有名なアメリカ大使館員人質事件が起こった。ある館員はCIAの要員でイラン側にきびしく取り調べられたが、イランの国語ペルシア語をひとことも話せず、中東の知識もおどろくほど欠如していたので取調べ官があきれて「おまえはほんとうにCIAか」といったという。
CIAの間抜けさ加減を象徴する絶好の挿話が書かれているので紹介しよう。
現在、更迭されたラムズフェルド氏に代わって国防長官となっているロバート・ゲイツ氏は、父ブッシュ政権時代CIAの主席補佐官をつとめていた。1990年の8月、彼は休暇で家族とともにピクニックにでかけていた。妻の友人の女性がピクニックに参加するためにやってきたが、彼女はそこにゲイツ氏がいるのを見て驚いて言った:
「あなたここでなにをしていらっしゃるんですか?」
逆にゲイツ氏が驚き、「なにをおっしゃってるんですか?」
彼女「侵攻(インヴェージョン)ですよ!」
主席補佐官「侵攻って?」
彼女「イラク軍がクウェートに侵攻したんですよ、ご存じないんですか」
だがこの抱腹絶倒の場面に笑ってばかりいられない。冷戦時代、鉄のカーテンの彼方に送りこまれたCIAの要員やその手先のスパイたちは、容赦なく殺され、逮捕されて拷問され、あるいは二重スパイを強要され、断わると処刑された。こうして闇の中に葬られたひとたちは数百人以上に昇るという。本書の題名の「灰」は、いうまでもなくこれらのひとたちの遺灰を意味する。



