テッポウユリの季節が巡ってきた。緑一色の庭のいたるところで、純白の花弁が微風にゆれている。その清楚なたたずまいといい、高貴な香りといい、なにかこの世のものでないおもむきがある。月遅れの盆(ほんとうの旧暦の盆つまり旧七月の満月は今年は八月二十八日に当る)に咲くのも、むべなるかなと感じてしまう。
今日終戦記念日は、伊豆高原のわが家でも今年はじめて気温が30度となり、62年前のあの暑い日を思いださせてくれた。連日の米軍機の爆音も、機銃掃射の音も、鉄道を狙う爆撃音もない奇妙な静寂、あくまでも青く澄み切った空、容赦なく焼け野原に照り返す烈日、汗と埃の染み付いた衣服を通じて肌を蒸す暑熱、常態となっていた耐えがたい飢餓感、あるいは拡声器を通じてひびく、敗戦を告げる天皇の声の思いもかけない甲高さと詔勅独特の抑揚……すべてが一瞬によみがえり、また消えていった。
パール判事の非暴力思想
八月十四日、NHK総合テレビで放映された「パール判事は何を問いかけたのか」は、地味ではあるがきわめて明証性の高いすぐれた番組であった。
いわゆる満州事変からはじまり、日中戦争、太平洋戦争を指導した日本の戦争責任を問う「東京裁判」で、いわゆるA級戦争犯罪人の全員無罪という少数意見を主張したインドのパール判事の膨大な判決文をもとに、彼の主張とその裏にある法倫理や思想をみごとに明らかにし、また盟友となったオランダのレーリック判事にあたえた影響や、見渡すかぎりの廃墟となったヒロシマを上空から見て衝撃を受け、パール判事とは異なる少数判決を書いたレーリック判事の内面を追うドキュメンタリーである。
パール判決は、法的にはきわめて単純で明快である。すなわち事後に制定された法律で、事前に起きた事件または犯罪は裁くことができない、という「事後法」の問題である。東京裁判のモデルとなったのは、ナチスの戦争犯罪を裁いた「ニュルンベルク裁判」であり、そこで適用された、通常の戦争犯罪、平和に対する犯罪、人道(ヒューマニティ)に対する犯罪の三つの告発が、そのまま東京裁判の憲章とされた。パールはそれが事後法に相当するとし、この事後法の適用は、結局勝者による敗者の裁きという復讐またはルサンティマン(怨恨)の表現以外のなにものでもなくなる、というものである。
だが誤解してはならない。彼がそれによって、とりわけアジアで犯された日本の戦争犯罪を免責しているのではまったくないことである。法廷でとりあげられた南京虐殺をはじめとする日本軍による多くの残虐事件を彼もきびしく告発し、それらは近代日本が西欧帝国主義の道を選択した結果であると断罪している。
つまり彼が告発しているのは、近代日本であるだけではなく、植民地や資源の争奪に走った西欧帝国主義であり、その制覇の手段となった戦争そのものである。
それだけではない。彼は戦争の根本である暴力そのものが、つねに世界を誤らせてきたという。この非暴力の提唱をみても明らかなように、彼はマハートマ・ガーンディーの信奉者である。コルカタ(カルカッタ)でインド独立運動に携わった法律家として彼は、戦争や暴力が真の平和や心の平安をもたらすことはまったくありえないことを学んだ。この確信、というよりもこの倫理的法思想が、あの1000頁にも及ぶ膨大な判決書となり、戦争そのものを問うことのない近代的な多数意見と、根本的に対立する少数意見となったのだ。
出発点では典型的な西欧の法律家であり、多数意見の判事たちとほとんど変わりがなかったオランダのレーリック判事が、最終的に、A級戦犯のうち軍人を有罪、広田弘毅元首相をはじめとする文官を無罪とする少数判決を書くにいたった内面の変遷が、またわれわれを深く考えさせてくれる。
彼はたまたまパール判事の隣席であったというだけではなく、彼の人柄や思想に深く惹かれ、盟友となっていった。興味をもちはじめた非暴力の思想が天啓のようにひらめいたのは、彼が連合軍の飛行機に同乗し、ヒロシマを上空から眺めたときである。一望の瓦礫となった太田川の広大な河口デルタは、戦争や暴力の究極のむなしさを訴えていた。
彼はまた、ナチスの一党独裁によって必然的に幹部の「共同謀議」が成立するドイツの戦争犯罪とは異なり、戦前の日本の統治機構で軍の「統帥権」から排除された政府や議会が、戦争拡大に反対したにもかかわらず押し流されていった意思決定の過程を精密に判断し、A級戦犯の「共同謀議」を断罪する多数意見をきびしく批判した。
東京裁判ののち、オランダに帰ったレーリックは、非暴力や真の平和を追求する平和研究センターを設立し、一生をそれに捧げたという。
パール判事やレーリック判事を更迭させるため、多数意見のなかの強硬派であるイギリスの判事らがGHQのマッカーサー司令官を訪れたとき、冷たくあしらわれたという挿話も興味深かった。マッカーサーは、サンフランシスコにあった軍の日本研究センターから日本の戦後統治についての報告や助言を受けていたし、総司令部内にその人材を多く抱えていたこともあり、日本がドイツとはまったく異なったケースであることを十分認識していたにちがいない。
いずれにしろ、戦争とはなにかを深く考えさせる番組であった。



