東京は連日猛暑日のようだが、こういう日は伊豆高原は涼しい。海風が樹間を吹きぬけ、部屋にさわやかな海の使信を届けてくれる。はるか海上に大島の岬が見え、大型・小型の船が行き交っている(大島の見えない日は湿度が高く、30度を超えなくても蒸し暑い)。夜は、海沿いの温泉街のどこかで、観光客目当ての花火が打ち上げられる。
そこで駄句をひとつ:
伊豆の夏、今宵はいずこの花火やら
残留放射能の恐怖とナガサキの記憶
8日からの北京オリンピック開催で日程が組めないらしく、8月6・7日にNHK総合TVで、ヒロシマ・ナガサキの記念番組がいくつか放映された。
出色は7日の「封印を解かれた写真が語るNAGASAKI」であった。真珠湾攻撃に憤激し、ジャップ(日本人の蔑称)を殺すために志願したという平均的アメリカ白人であった海兵隊写真班の兵士ジョー・オダネルが、戦争終結後、ナガサキの被害状況の撮影を命じられ、単身ナガサキの爆心地に赴き、軍の資料としての撮影のかたわら、ひそかに自身のカメラで撮影して持ちかえった映像と、それにまつわる物語であった。
はじめは被爆地を物体として撮影していた彼は、しだいにその恐るべき被害に衝撃を受け、廃墟のなかで苦難に耐えるひとびとにカメラを向けはじめる。呻き声や異臭のただよう負傷者収容所の異様な混雑、あるいは火葬するために死者を河原に運んでくるひとびと、そのなかにひとり、死んだ弟を背にくくりつけ、裸足で歩いてくる少年の、必死に苦しみに耐えるまなざしと、血がでるまでに食い縛った唇に心を突き動かされ、思わずシャッターを切る。
だがこれらの写真を故郷に持ち帰ったオダネルは、トランクに封印し、屋根裏部屋に隠してしまう。ひとつは私的な写真は軍命令の違反であるうえに、彼自身にとってもナガサキは、あまりにも深い精神的創痍(トラウマ)となっていたからである。
だが40数年後、ある反戦集団が造ったヒロシマ・ナガサキの写真を身体中に張りつけたキリストの磔刑像に出会い、写真の公開を決意する。だがその行為は、故郷を含め、全米からの反感となって返ってくる。妻からも離婚され、さらに被爆直後のナガサキに入り、プルトニウムをはじめとする高線量の残留放射能(その恐怖は6日に放映された「見過ごされた残留放射能・63年後の真実」に詳しい)を浴びていた体は「原爆症」を発病し、彼自身が身体的・精神的苦難にさらされる。発病に対する補償請求は軍から却下され、写真集の出版は30いくつもの出版社から拒否される。
孤立無援の彼に、しかし日本から支援の申し出があらわれる。日本に招待され、ヒロシマ・ナガサキで写真展が開催され、彼が撮影した「焼け爛れた背の少年」、つまり奇蹟的に生き延びた谷口氏と再会する。彼はまた、あの「弟の死体を背負う少年」にも再会すべく、八方手をつくし、メディアも協力したが、それはかなわぬままに終った。
ただ彼を最後に慰めたのは、「イラク帰還兵」から写真集のサイトに寄せられた激励のメールで、戦争の真実を知るもののみに許された連帯感であった。いまイラク戦争をへて、アメリカの空気は変わりつつある。彼の死後、「封印を解かれたナガサキの写真」は、たんに歴史の証言であるだけではなく、ドキュメンタリー・アートとしての評価が高まりつつある。



