まだ蝉の声がかまびすしいが、陽射しは短く、乾いた風は涼しい。夜、虫の音に耳を傾け、秋の訪れを実感するが、年々虫の種類が少なくなっていくような気がする。マツムシやクツワムシの音は絶えて久しいが、今年はまだ、家のまわりでカネタタキの声を聴かない。と、ここまで書いてきたとき、それに応えてか、庭の草叢から日は高いのにかすかにカネタタキが鳴きだした。いささかほっとする。
迷走する政治
福田康夫首相が突如政権を投げだしたというので、メディアはその「無責任」非難の大合唱である。無責任でないとはいえないが、「小泉改革」がもたらした大きなひずみや格差を、懸命に是正しようとしたその努力を評価する声があってもいい。この1年安倍内閣がつづいていたら、と考えただけでもぞっとする。格差是正問題やアフガン支援策などでは、民主党もある程度協力できたはずだが、「大連立」構想から一転対決姿勢となり、政権の提出する重要法案にすべて反対するなど、こちらも「無責任」の非難をまぬがれまい。
だが、後継の最有力候補が麻生太郎氏とは、なんともさびしいかぎりである。ある政策集団の会合でゲストとして招かれた氏に、私も2度ばかり会ったことがあるが、明確な政治的信条や戦略のあるひととはとうてい思えず、むしろ風見鶏的な軽薄ささえ感じた。同じく、別の機会にゲストとして現われた小沢一郎氏にも会ったが、こちらも政治家としての深みや大きさをまったく感じることはできなかった。
長期政権はかならず腐敗するため、政権交代そのものは悪いことではない。だが世界経済が暗雲に閉ざされ、いわゆるテロとの戦いも暗い状況にある(アフガンでは、内部に穏健派を抱えたタリバーンとの交渉が突破口となる)とき、世界戦略にも国内の長期政策にも展望をもたない政権が樹立されても、政治の混迷はますます深まるばかりである。
夏休みの読書報告
現役引退の身、夏休みがあるわけではないが、暑い日々はやはり読書にかぎる。
日系アメリカ人で著名な理論物理学者ミチオ・カクの『不可能なものの物理学』(Kaku,Michio.Physics of the Impossible;A Scientific Exploration into the World of Phasers,Force Fields,Teleportation,and Time Travel.Doubleday,New York,2008)が、しばらくの間「ニューヨーク・タイムズ」書評紙のベストセラーとなっていたので興味をそそられ、購入した。彼の1994年の著書『超空間(ハイパースペース)』がきわめて刺激的であったのを思いだしたからでもある。
「不可能なもの」とは、たとえば映画『スター・ウォーズ』やSFに登場する空想的な武器や運搬手段、また、いわゆる念力(サイコキネシス)など超常現象(ESP)とよばれる不可思議な現象、あるいはタイム・トラヴェルや光速よりも速い速度が存在しうるかなど、実現または存在不可能なものの総称であって、それらを最新の物理学によって解明し、実現可能性を追求したのがこの本である。
カクはストリング理論の先駆者のひとりだが、はじめはいわゆる標準理論(スタンダード・セオリー)のよそおいで『スター・ウォーズ』などに現われる武器や宇宙船の実現可能性を論じ、数十年から数百年のタイムテーブルで多くは技術的に可能だとしている。だが彼の真骨頂は、われわれの宇宙の質量の大部分(現在ではほぼ90パーセント以上とされている)を占めている暗黒物質や暗黒エネルギー、あるいは粒子の電荷やスピンなどすべてが逆となる反物質や反エネルギーの存在に触れ、それらが多重世界とどうかかわるか、またそれがわれわれの宇宙や地上にどう影響を及ぼし、異常現象をもたらすか、などを論じている点にある。
太陽系や天の川銀河だけではなく、われわれの宇宙そのものもいつかかならず消滅点にいたるが、そのとき、生き延びるために他の平行宇宙に移動することが可能か、などという問題さえもとりあげられる。もしプランク・エネルギーという途方もないエネルギーを制御可能にした文明が存在するとすれば、可能だという。なぜならそのエネルギーさえあれば、ブラック・ホールまたはワームホールとよばれるミニ・ブラック・ホールの通過が可能となるからである。
念力(サイコキネシス)などの超常現象については、彼自身半信半疑であるらしく(ユリ・ゲラーもとりあげられているが)、明確な分析はなく、またヨーガや道教などの気(プラーナ)による超常現象(空中浮揚や治療など)にもまったく触れられていないのは残念である。体内の酸素燃焼エネルギーのプラズマ的放射である「気」は、物理学的に十分研究対象に値するのだが。
ブラック・ホールやワームホールについては、最近スティーヴン・ホーキングに挑戦するスタンフォード大学の理論物理学者レナード・サスキンドの本『ブラック・ホール戦争』(Susskind,Leonard.The Black Hole War;My Battle with Stephen Hawking to Make the World Safe for Quantum Mechanics. Brown & Co.,2008)が出版され、話題となっている。
二人の論争点は、すべてを飲みこむブラック・ホールでは光だけではなく情報さえも失われるとするホーキングに対して、サスキンドは情報は保存されるとしている。その根拠はブラック・ホールの縁にあるホライズン(地平線)とよばれる2次元空間で、1情報単位(ビット)あたりプランクの長さの平方というとてつもない微小空間に記録されるという。そのうえ彼は、もしわれわれの宇宙全体がブラック・ホールをくぐりぬけたとすれば、すべての質量は、時間の矢印さえも逆となる反宇宙となってその向こう側に噴出し、まさに新しいビッグ・バンがはじまるのだ、ともいう。
いずれこの本も注文して、面白ければ報告したいと思うが、ニューヨーク・タイムズ書評紙の評者は、「脳が感覚やエラー訂正機能のプラグを引きぬかれる夜、われわれはとてつもない夢を見る。まさに21世紀の物理学がそれなのだ」と皮肉っている(NYTimes Book Review,Aug.24,08)が、とにかく最近の物理学界は、われわれの想像力を強烈に刺激し、わくわくさせてくれる。



