緑の葉叢から鬱金色のキンモクセイの花が溢れている。今年は一週間ほど花期が遅れたようだ。9月末から急に寒気が訪れたというのに。
カミさんの書斎の窓を開けておくと、その横にのびた枝々から馥郁とした香りが入りこみ、家中にただよう。秋深し、である。
30年遅れのノーベル物理学賞
南部陽一郎(米国籍)、小林誠、益川敏英の三氏に本年度のノーベル物理学賞が授与された。下村脩氏の化学賞受賞と合わせてマス・メディアは大騒ぎとなっている。株価大暴落や世界金融危機などの暗いニュースのさなかの明るいビッグ・ニュースとあって、ここを先途の熱狂的報道である。受賞のお祝いにやぶさかではないが、現代物理学に多少ともなじみのあるものなら、「なぜいまごろ?」というか、むしろ時代の針が逆戻りして、いまは1970年代なのか、といったいわゆるタイム・スリップの奇妙な感慨を味わったひとも少なくないだろう。
彼らの受賞の理由は、南部氏が「対称性(シンメトリー)の自発的破れ」の発見、小林・益川両氏が素粒子クォークの分類モデルの形成など、いずれも「標準理論」の発展に寄与した業績だとされている。だが彼らのこの業績は、1960年代から70年代に発表されたものであり、その時点での受賞がふさわしい。
とりわけ南部氏は60年代からノーベル物理学賞受賞をうわさされていたひとであるが、むしろ現在は「標準理論」への寄与ではなく、1970年に発表された論文の先駆的認識で高く評価されている。
すなわちそれは、ハドロンとよばれる現象にまったく新しい解釈を与えるものであった。ハドロンとは強い相互作用をもつ一対の素粒子(クォーク)の束(パケット)であって、加速器のなかで瞬時に他の一対の粒子に変換され、飛び散っていく。たとえばA,Bという粒子の対はC,Dに変換されるが、その変換の仕方はx,y,z...と多様であり、ひとつの現象とはとうてい思えないのだ。
イタリアのヴェネツィアーノは、それら4つの粒子が相互に振動し、共鳴しあっている一体であるというヴェネツィアーノ・モデルを提起したが、それに遅れること数年、南部氏は、それらが点である粒子ではなく、相互に結ばれたストリング(弦)であるとする画期的な仮説を唱えた(Cf.Penrose. The Road to Reality. P.884s)。つまり4つの枝をもつ弦であれば、多様な変換はすべて弦のねじれ方に帰着し、それがひとつの現象に収束するからである(どのようにねじれても、同じ弦であれば位相数学的に同一となる)。
すなわち南部氏は、1970年にすでに、1980年代にジョン・シュウォーツとマイケル・グリーンによって開始された「超弦理論(スーパーストリングズ・セオリー)」を先取りしていたのだ。
超弦理論またはひろくストリング理論は、「標準理論」に代表される量子力学以後の物理学的伝統に真っ向から挑戦し、「標準理論」を葬り去るような「革命」であった。日常的な巨視的世界と粒子の飛び交う微視的世界をデカルト的二元論で分かち、点である粒子を物質の最小単位とする「標準理論」は、核の強い力、弱い力、電磁力の3つの力しか記述できず、途方もない数に殖えた素粒子の分類に頭を悩ませ、多くの矛盾や逆理に解答をみいだせず、ただ加速器による実験だけでその理論的生命を保ってきた。
だがストリング理論は、ついに微視的世界での重力の記述さえも可能にし、微視的世界と巨視的世界の障壁を乗り越え、われわれの宇宙だけではなく、無数の平行宇宙をも含め、絶対的な一元論で世界を解釈することを可能にした。その唯一の欠陥は、物理学的実験が不可能な点である。なぜならストリングが存在するのは10のマイナス33乗センチメートルというとてつもない微小空間であり、それを破壊して実験するためには、プランク・エネルギーというこの地上では手に入れることのできない巨大なエネルギーが必要とされるからである。現在ジュネーヴで稼動を待つLHC(大ハドロン衝突器)──稼動早々に冷却液漏れを起こし、修理中──で、ストリング理論のごく一部が実証されるかもしれないと期待されている。
超弦理論については、詳しくは私の『近代科学の終焉』(1998年、藤原書店)を参照していただきたい。かつてこの本を贈呈した東大理学部出身のサイエンス・ライターのY氏は、標準理論の全面的否定に怒り心頭に発したらしく、「この本はただちに絶版にしてください」と手紙を送りつけてきたが、ノーベル物理学賞の審査委員たちも同じ心境らしい。前記のシュウォーツ、グリーン両氏だけではなく、ストリング理論のさらなる展開に寄与しているエドワード・ウィッテンと「プリンストン弦楽四重奏団」(プリンストン大学の4人のストリング理論推進者)やリサ・ランドールなど、物理学賞受賞資格者は数多いのに、いっさい無視されている。
「標準理論」と「ストリング理論」との戦いは、たんに物理学内部の戦いではなく、近代と脱近代という世界観の戦いなのだ。それゆえいまやこの知の戦争は、歴史的かつ劇的なものとなりつつある。



