庭先でウツギの花、つまり卯の花が白く咲き零れている。ツツジの根元にひろがるドクダミの可憐な花も白く、芝生や背景の樹々の緑に映えて美しい。森のさまざまな樹々の花も白一色であり、6月の風景を特色づけている。それらのほのかな匂いと小鳥たちの囀りが、五月晴れ(本来の意味、つまり梅雨の晴れ間)のわずかな陽射しとともに、心を温めてくれる。

「正義」とはなにか 

 創文社のPR雑誌「創文」は、知的刺激を受ける論文をときどき掲載するので、比較的よく読んでいる。その5月号(519号)に、法哲学者で東大大学院教授の井上達夫氏の論文「リベラリズムをなぜ問うのか」が掲載され、良かれ悪しかれ強い刺激を受けたのでここで批判的に論じておきたい。 

 その趣旨は、かつては戦前体制への回帰をもくろむ保守反動勢力とマルクス主義との対立の狭間に埋もれ、冷戦終了後は、近代を批判するポスト・モダン諸思想(たとえば多文化主義やフェミニズム)によって切り捨てられたリベラリズムの真の復権こそが、「戦後日本社会の根本的な自己改革」に結びつくものである。「戦後日本の思想界において、リベラリズムが周辺化されてきた」のは、リベラリズムに対する根本的誤解があるからである。なぜなら、それがつねに権力を批判し、権力の統御とその責任の明確化(氏はレスポンシビリティの直訳らしいが「答責性」という語を使用する)をはかってきたように、「リベラリズムの基底的理念は自由ではなく、正義である」からである、と。 

 氏の論旨は、部分的には傾聴に値するものが多い(たとえば経済グローバリズム批判やアメリカの覇権主義的行動批判など)し、関心をもたれる方にはこの論文の一読をお奨めするが、問題はこの「正義」の観念にある。 

 すなわち、これほど近代キリスト教の宗教的色彩を帯びたことばはない、という点である。宗教改革以後のキリスト教とりわけプロテスタンティズムは、すべてを神と信仰者個人との問題に還元し、神のコトバすなわちロゴスを理解し、日常的に実践するのは個人の理性(ロゴス)の力であるとした。もし個人の理性による判断に差異があれば、それは公的な場(司法であれ行政であれ)での討議や検討をへて決定されるべきであり、それが公的なロゴスとしての法体系となる。ここに自由と民主主義の根源があるとする。 

 だが神のロゴスは、同時に善悪や正邪の二元論的価値判断であり、この神の審判を人間が自己の理性にもとづいていわば代行する。いいかえれば価値判断としての神のロゴスが「正義」であり、それが人間によって担われることになる。しかし近代キリスト教的な価値体系をもたない諸文化は、このような「正義」観念にまったく無縁であり、むしろその導入に反発するだろう。なぜなら、「正義」は「道徳」同様、人間の意識のレベル、いいかえればプラクシスのレベルでの判断でしかなく、全体的なものではない。極端にいえば文化や社会によって「正義」の基準、「道徳」の基準(たとえば同じ合衆国でも、時代が異なると宗教的な悪であった同性愛が許容されるにいたる)は異なってくるからである。非近代諸社会では、「倫理」はむしろ無意識のレベル、つまりプラティークのレベルにいわば埋め込まれているのであり、それが日常的な実践、つまりプラクシスを規定する。 

 たとえばホピ語には「正義」(justice)にあたることばはない。むしろ英語のjustやfairに当るsun’ta(公平な、公正なの意〔ダッシュはグロッタル・ストップ〕)があるが、富の配分などに使われ、倫理的意味は少ない。むしろ「ホピ」「カ・ホピqa hopi(ホピでない)」の方が日常的に使われ、倫理的な判断となる。平和である、温和である、礼儀正しい、などなどの意味をもつこの語は、部族の名称にさえなっているが、彼らの無意識で感性的なレベルでの根本的な倫理を表現している。ホピであることは個人に要求されるだけではなく、氏族全体、村全体、部族全体に要求される規範である。 

 これは一例にすぎないが、イスラーム諸国をはじめ、西欧的・近代的「正義」に無縁な種族にとって、井上氏の議論は倒錯した観念的なものと映るだろう。むしろそれはイスラーム原理主義などと等価の、西欧近代リベラリズム原理主義としか受け取られないにちがいない。

新聞記者の知的レベル 

 漢字の読めない首相をいただくわが国であれば、マスメディアの知識人たちの知的レベルが低下するのもやむをえないのかもしれない。それにしても噴飯ものの誤りが目立つ作今である。 

 毎日新聞に、二葉亭四迷がロシアの革命家に送ったロシア語の手紙が発見されたとの記事がでた(5・25夕刊)。その一節に「(日露戦争のロシア軍司令官)クロパトキンが書いた本をどこで、どのように入手できますか。東京のある新聞が要点を書き、センセーションを巻き起こした」とある。カッコ内はこの記事を書いた記者の補注であるが、クロパトキン将軍が革命的な本を書いたとは初耳である。クロパトキン(ロシア語のオは日本語のアに近く発音される)家は帝政時代の名門貴族であり、多くの俊秀を輩出した。二葉亭のいうクロパトキンはいうまでもなく生物学者で無政府主義者のピヨートル(ピーター)・クロポトキン侯爵(後半生ロンドンで活躍した)、つまり当時の社会ダーウィン主義や優生学に反対し、生物学的共生の概念にもとづくユートピア社会主義を提唱したひとであり、のちに堺利彦や宮沢賢治にも大きな影響をあたえた。社会主義に関心をもつ二葉亭四迷が、ロシア極東軍司令官などに興味をもつはずがないだろう。 

 また同じく「毎日」(6・5)に、パリの治安悪化が報じられていたが、暴漢が警察車輛を止め「機関銃を乱射」とあって、ギャングもここまで重武装したかと驚いたが、文中AK47銃と書かれ、自動小銃であることがわかった。この記者は自動小銃と機関銃の区別もつかないのか、とこれもまた驚いたしだいである。口径は同じ(AK47自動小銃は7.7mm)で、同じく自動連射が可能でも、機関銃は1分間あたりの発射量が大きく、また炸薬量がちがい、したがって初速(発射速度)が早く、装甲貫徹力や射程距離がはるかに大きい。それに応じて銃身が長く(空挺部隊用の短機関銃は別として)、発射機構や冷却機構も複雑で全体は重い。軍用装甲車ならぬ警察車輛を襲撃するには、重くて扱いにくい機関銃などは不要である。 

 そのほか、これは毎日にかぎらず、英語の人名発音の表記が誤っているのも気がかりである。たとえば、昨年の共和党合衆国大統領候補マケイン氏が指名した副大統領候補がサラ・ペイリンとどの新聞・テレビにも表記され、発音されていたが、英語のSarahはセラである。また巨額詐欺事件で逮捕されたNASDAQ前会長はメイドフMadoffであってマドフではない。マスメディアには私などがおよびもつかない英語の達人が多いと思うが、なぜだろう。 

 とにかくこれらは、メディアの記者たちの知的レベルの低下を示しているのだろうか。気がかりである。