いつもは緑の海の彼方にみえる隣家の屋根も消える濃い霧のなか、樹々の影が水墨画のように浮かび、深山幽谷のおもむきを醸しだしている。雨と風にも負けずウグイスが鳴き競っている。賢治の「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ」の詩句を思いだす。濡れたアジサイの鮮やかな青だけが、唯一の色彩として映える。
ヘンデル没後250周年
今年はヘンデルの没後250周年にあたる。いくつかの記念コンサートやオペラの上演などが企画されているようだが、盛り上りはみられない。日本経済新聞にも池田卓夫記者が「作曲の巨星なぜ不人気?」と、ヘンデル、ハイドン(没後200年)、メンデルスゾーン(生誕200年)をとりあげて論じていた(6・20)。かつてロマン・ロランの『ヘンデル』の下訳をしただけではなく、どちらかというとバッハよりもヘンデルの好きな私は、ここでとりわけヘンデルが、なぜわが国で「不人気」なのか考えてみたい。
ひとつはわれわれが、その膨大な作品群を展望する尺度をもっていないことに由来する。つまりバッハであれば、教会オルガニストやワイマール宮廷オルガニストであった時代のオルガン作品群、ケーテン宮廷楽長時代の器楽作品群、彼にとっては不本意な「就職」であったライプツィヒのカントール時代の宗教作品群と晩年の難解な器楽曲などと、ほぼ内容とともに分類できる。
だがヘンデルの代表的作品群であるバロック・イタリアオペラは、わが国ではほとんど上演されず、イメージすらない。『メサイアー(救世主)』を除き、イギリス時代後期のオラトリオや合唱作品群も同様である。『水上の音楽』(前ハノーファー選帝侯だったジョージ1世との和解という誤った伝説でも有名だが)や『王室の花火の音楽』、『ハープ協奏曲』やチェンバロの『陽気な鍛冶屋』などごく少数の器楽曲はポピュラーだが、彼の器楽の頂点である数々のコンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)や各種協奏曲、また心をゆさぶるオルガン曲やオルガン協奏曲などはほとんど聴く機会がない。
ピアノのベートーヴェン同様、悪魔的とさえいわれた彼のオルガン即興演奏は、彼の内部から泉のようにほとばしりでる楽想を暗示している(ロンドンでのオペラ上演の失敗による破産と脳出血に倒れた心身を癒すため、フランス南部のエクサン・プロヴァンスで温泉療法をしていたが、あるときかなり回復した彼は、訪れた大聖堂でひとり神に感謝するオルガン即興演奏を行った。たまたま堂内にいた一群の修道女たちは、あまりのすばらしさに電撃に打たれたようになり、「奇蹟が起こりました!」と叫んだという)。
そのほとばしる豊かな楽想が、がっしりとした土台に支えられ、次々と壮麗な音のバロック建築を作り上げていく。そこから湧きあがる壮大な気分は比類がない。ベートーヴェンのある種の作品が醸しだす「英雄性」と親近感があるが、ヘンデルのそれはより古代的な叙事詩のおもむきをもつ(晩年のベートーヴェンが知り合いからヘンデル全集を送られ、深く傾倒し、影響をうけたことは意外と知られていない)。
ヘンデルの世界を、この意味で「旧約の世界」といっても誤りではないだろう。彼がオペラやオラトリオの題材としてギリシア・ローマ神話や伝説、あるいは『旧約聖書』に多くを求めているが、それだけではなく、その音楽世界全体が旧約的なのだ。ユダヤ・キリスト教と姉妹宗教イスラームだけではなく、多くの古代文明や宗教が混交し、地中海文明とも名づけうるひとつの普遍的な文明が造りあげられたが、その背景なくして『旧約』を理解することはできない。たんにイタリア・ドイツ・フランス・イギリスなどヨーロッパ各地の音楽様式(細かくいえばヴェネツィア楽派の金管楽器対位法やプロテスタント・ドイツのオルガン様式などなど)を統合しているだけだはなく、彼の音は、こうした古代の普遍的世界の面影を鳴りひびかせている。
対照的にバッハの様式は、ヘンデルよりもはるかに緻密であり、音の建築というよりも精密な音の織物というべきだが、同時に彼の世界は、「新約の世界」と名づけてよい性格をもっている。晩年のライプツィヒ時代の受難曲やカンタータが『新約』の世界、つまりイエス・キリストの受難やひとびとの苦悩を直接うたっているというだけではなく、彼のケーテン時代の純粋な器楽曲といえども、バッハの心情の奥底を形成する敬虔主義(ピエティズム)の信仰とその感情のありかたが、深く反映している。
つまり、バッハの「新約の世界」は、繊細な情緒を好み、ときには感傷主義にさえ陥りがちな日本人の芸術的嗜好に大きく訴えるものがあるが、ヘンデルの「旧約の世界」は、叙事詩という芸術ジャンルさえもたない抒情詩的な日本人の芸術文化をはるかに超えているがゆえに、「作曲の巨星ヘンデルはなぜ不人気?」となるのである(いうまでもなくわが国には神話や伝説は豊富であり、また『平家物語』を代表とする数々の語り物はあるが、これはユーラシア大陸でいう叙事詩ではなく、あくまで歴史的事実に感情移入する長大な抒情詩といってよい)。
【付記】
ブログ読者のみなさんご愛読ありがとうございます。また数々のコメントも貴重に読ませていただいています。多忙で直接ご返事できず失礼しています。とりわけ日記51に対する内藤修さんのコメント、たいへん参考になりました。お礼申しあげます。



