桜や梅の樹々の葉が色づきはじめているのに、まだ蝉時雨である。夜は、すだく秋の虫の音が心地よくかまびすしい。ただ何度も書いたが、虫の種類は恐ろしく減っている。生物多様性が地球の生命を護り、人間にとっても住み良い環境をもたらすのに、現実は逆行している。
身体的喜びとしての芸術や思想
コレクションというほどではないが、室内にパプアやアフリカ、あるいはアメリカ・インディアンなどの仮面や彫刻を飾っている。いつ見ても飽きることはないが、それがなによりもデザインの新鮮さや形や色調の美しさといった、視覚的であるとともに身体的な喜び(フィジカル・プレジャー)からきていることに気づく。そして同時にその喜びが、それぞれに特徴的な秘儀的な宇宙論をおぼろげに喚起する。
感覚的で具体的なものを通じて精緻な論理を展開する、誤って未開と呼ばれている諸文化の思考体系を明らかにしたのはレヴィ‐ストロースであるが、われわれの祖先たちも、身体的な喜びをともなう芸術的表現と思想や宇宙論が不可分であることを示してきた。『古事記』や『万葉』といった言語表現だけではなく、御神楽などのパフォーマンスや建築や絵画にいたるすべてがそれである。
このわが国固有の精密な感性の論理を見落とした、あるいはまったく気づかなかったがゆえに、丸山真男流の日本思想史は挫折せざるをえなかったといってよい。また多くの「戦後民主主義者」の日本論が誤ってきたのもその点からである(そうかといって右翼的日本論や日本人論もイデオロギーが逆であるだけでまったくの観念論である)。
彼らが依拠してきた学問的方法論は、構造主義以前の伝統的な諸観念論――主観主義と客観主義とに二元論的に分裂していて、主観主義のみを「観念論」と名づけてきたが、客観主義もその裏返しの観念論にすぎない――であり、誤って「理性」と「感性」とを分裂させてきた。学問は理性と知性の作業であって、感性や感覚といった非合理的なものとはかかわりがない、というものである。こうした二元論で「未開」や古代の思想や宇宙論が理解できるはずがない。
構造主義の画期的な点はここにある。それらの思想だけではなく、たとえばいまわれわれの味覚や料理といったもっとも感覚的に思われるものでさえも、その方法によって科学的に分析可能なのだ(たとえば私の「いなり寿司」の構造分析をお読みいただきたい〔『知と宇宙の波動』平凡社1989年、第五章参照〕)。
音楽の観念論
音楽はもっとも感覚的な芸術と思われてきたが、西欧の古典音楽は、こうした古代や「未開」の芸術と同じく、理性と感性の精妙な均衡のうえに展開してきた。バッハやヘンデル、あるいはモーツァルトやベートーヴェンの諸作品の深い魅力はそこにある。彼らの音楽のかもしだす身体的な喜びは、同時に彼らの思想の深みを開示してくれる。
ロマン派音楽は、こうした古典派への反逆ではなく、18世紀末からはじまった産業革命に代表される経済的合理主義の社会、つまりロマン主義者たちの嫌悪した「ブルジョア(ビュルガー)的俗物社会」の合理主義(理性至上主義)への反逆であった(シューマンの『謝肉祭』は、終曲で、当時流行の「先祖の踊り」に象徴される「俗物性」に対抗してそれを粉砕するダヴィッド同盟員の行進で終る)。
だが、感性というよりこの「感情または情念の反逆」は、それ自体、しだいに観念論の罠に陥る。ブラームスの苦渋に満ちた「矛盾」(感情と観念との相克)や、後期ワーグナー、とりわけ『指輪』の指導動機の迷路での彷徨から、マーラーにいたるポスト・ロマン主義は、情念の膨大な流れを観念によって閉じ込めようと苦闘する。
この「感情の観念化」から音楽を解放し、音の純粋な身体的喜びを回復しようとしたのがドビュッシーの束の間の「革命」であるが、むしろ時代の閉塞感や暴力化は、20世紀音楽をより抽象的な観念化の袋小路に誘うこととなった。それが12音やミュジーク・セリエルである。今世紀なっても、作曲技法だけは新しいが、こうしたニヒリズムから脱出できない音楽や、思想も宇宙論もなく、ただ微細な感覚的喜びだけを追求する音楽が、依然として会場に溢れている。
こうした状況のなかで私が西村朗や新実徳英の諸作品を高く評価するのは、彼らの音楽が芸術本来の身体的喜びを感じさせ、日本やアジアの古代宇宙論を遠く喚起しながら、しかもわれわれ現代に生きるものの共鳴を呼び起こす「音の思想」を表現しているからである。
最近現物ではないが、田村能里子の天竜寺塔頭宝厳院本堂の襖絵「風河燦燦」の写真を見る機会をえた。燃えるような緋色の地に、白くおぼろな菩薩の化身三十三人衆が、自在な姿で浮かび上がる幻惑的な絵に、すっかり魅入られてしまった。視覚芸術の身体的喜びを通じて「彼岸」あるいは「浄土」のヴィジョンが啓示される。アクリルという西洋画の技法を通じてアジア的宇宙論が表現されるこの様式に、西村や新実の作品との思想的共通性を見出した。
最近のこうした芸術動向に、私は新しい希望を見る。なぜならそれらは脱近代の文明を先取りしているからであり、実はこの感性と理性との動的な均衡こそ、私のいう弁証法的理性、つまり真の理性の実現にほかならないからである。



