柿の葉が、それこそ柿色に色づき、散りはじめた。より高いクヌギやナラに陽光を奪われて、わが家の柿の実はもうながいあいだ実らない(実ってもタイワンリスに食べられてしまうだろう)。夜、台所でカネタタキが静かに鳴いているので、音のする方向の壁に懸かっているホピのカチナを手書きしたテーブル・クロースをそっとめくってみると、布のあいだに小さなカネタタキがいた。このまえは食卓においたパン篭の布のあいだにコオロギが休んでいたが、虫たちは温かな布が好きらしい。

ホピを荒廃させる日本人たち 

 先日、在米三十数年、ホピに定住して十数年の日本人、今井哲昭さんが訪ねてきた。束ねて腰近くまで垂らした白髪、ジーンズの上下、長身で大柄の彼は、ハーレイ・ダヴィッドスンのライダーで、映画『イージーライダー』にでも登場しそうな颯爽とした初老である。ヴィラ・マーヤに一晩泊まり、心行くまで話しあった。 

 彼の話で心痛めたのは、いわゆるニューエイジ・グループと称し、心の拠り所を求めてホピにやってくるという日本人のある種の集団が、ホピに葛藤と混乱をもたらし、ホピ荒廃に手を貸しているという事実であった。 

 1960年代に出版されたフランク・ウォーターズの『ホピの書』(ひどい日本語抄訳があるが)は、60年代末の「文化革命」の大波に乗って全米の記録的ベストセラーとなり、白人の若者たちに大きな影響をあたえた。だが若者たちの“巡礼”の津波がホピに襲いかかり、大きな混乱をもたらした。青木と私がはじめてホピを訪れた1971年でさえも、村々の入り口に、ホピの生き方を尊重し、村の静寂や秩序を冒してはならない、裸で村内を歩くな、などといった警告の大看板が立てられ、ホピ文化センターのモーテルは白人の若者でいっぱいであった。 

 近代文明に絶望し、インド哲学やヨーガ、中国の道教哲学に道を求め、またアメリカ・インディアンの生き方を学ぼうというこの知的・感性的欲求は正しいものであり、大自然や宇宙との共生をめざすその新しい生き方の探求は、いまなお、というよりもいまこそ必要であることはいうまでもない。しかし、この高原日記【62】の結論で書いたように「ホピに自己を発見しにいくのではなく、われわれ自身のなかにそれぞれのホピを見出すことこそ、脱近代の枠組みを造りだし、世界を変革する手がかりとなる」のだ。 

 だが誤った「自分探し」のホピへの巡礼の波は、アメリカ白人からヨーロッパにいたり、さらに90年代には、日本へも到達したようだ。それには宮田雪氏のドキュメンタリー映画『ホピの予言』とその上映会が大きな力となっていると思われる。 

 氏はこの映画を撮りにいくまえ、東京のわが家を来訪し、ホピやナバホについての話を長時間にわたって聴きいていった。協力するつもりで私たちも雑誌などに書いたさまざまな資料も提供した。だがそれいらい一度も音沙汰はなかった。映画も、完成後かなり経ってから、たまたま知人がもってきたヴィデオで見ただけである。作品としては評価できないし、むしろホピやナバホの世界観や生き方のすばらしさはほとんど伝えられていない。むしろ誤解をまねくところも少なくない。そのうえナバホの鉱夫たちのウラニウム被曝の事実をつたえる場面のナレーションは、私が書いた論文の一部をそのまま無断で使用している。 

 問題は、たとえそうした映画であっても、それが誤った「自分探し」の日本人によるホピ巡礼の波をつくりだすきっかけとなり、ホピ荒廃の一因をもたらしたことである。宮田氏自身もアメリカ白人の活動家や他の外国人とともに、マーティン・ガスウェセウマやダン・エヴェヘマといった自称長老たちと組んで、ホテヴィラの村の土地に勝手にヤシロをつくり、村人たちを怒らせた。1997年、ホテヴィラの四つの宗教結社のほんとうの長老たちが、彼らを糾弾する声明を出すにいたったのも当然である。 

 こうした事情は私も把握していたが、日本人の集団が厳粛な祭祀の場に無作法に乱入したり、ホピのマナーを無視して村を闊歩したりという生々しい話を今井さんから聴くのは、まったく心痛む時間であった。そのうえ、この巡礼が商売になるとばかり、日本人の職業的ガイド・グループがセドナに巣食ったり、文化人類学者と称するひとがホピ文化の紹介と称してジュエリーを安く買いあさり、日本で高値で売るとか、もはや醜聞に属するようなことすら起こっているという。 

 わが国で最初にホピを紹介した私たちも、この荒廃の最初の一因をつくりだしたのだはないか、と深く反省する一日でもあった。