大晦日から元日にかけては旧十一月十五日の満月であり、快晴で大気の澄みきった夜空に恐ろしいほどの月光が燦燦と降り注ぎ、海も銀盤のように輝き、大島の黒い影がくっきりと浮かび、寒さも忘れ呆然と見とれてしまった。きわめて稀な光景であった。というのも大晦日に満月などとは、日本の暦では絶対にありえなかったからである。晦日の古語はツゴモリ、大晦日はオホツゴモリで、後者は樋口一葉の有名な小説の題にもなっているが、三十日であれ二十九日であれその夜は月が闇に篭る、つまりツキゴモリが訛り、ツゴモリとなったのだ。この暦上の異変が2010年の吉を示すのか、凶を示すのか?
年末から新年にかけ、はるばると弔問客が幾組か訪れてくださり、青木やよひの書斎はふたたび花で埋まっている。ありがとうございました。
2010年代の世界は?
各国政府の応急手当、BRICs諸国とりわけ中国とインドの国内消費拡大、ほころびたとはいえ戦前とは比較にならない先進諸国のセイフティ・ネットなどで支えられ、1929年のような大恐慌に陥らずにすみ、世界はいま経済的に一応の安定状態にあるが、この状況が何時までつづくかまったく保証はない。
なぜなら今回の世界的大不況は、グローバリズムそのものの崩壊という構造的なものであり、かつてのその構造に沿った政策、あるいはそれを補正する政策程度では、根本的再生にはならないからである。もし機軸通貨ドルの暴落や中国バブルの崩壊、インド経済のつまずきなどが起これば、たちまち世界的経済恐慌が訪れるだろう。
いわゆる先進諸国やBRICsを含めたグローバリズムの負の遺産は、経済体系を所得格差の拡大、南北格差の拡大、金融の投機化などを固定化するメカニズムに造りあげてしまったことである。したがって基本的にはまず、この潜在的構造を解体し、それに代わる経済体系を造りあげていかなくてはならない。
だがそのためには、グローバリズム崩壊後の世界をどう構築するのか、ヴィジョンを示さなくてはならない。さまざまなレベルで多くの声があげられているにもかかわらず、それらは一向に政治やメディアの場で取り上げられることはない。だが争点は簡単なのだ。
すなわち、近代性の経済的極限ともいうべき、大量生産・大量流通・大量消費、それに安易にして投機的な「大量金融」の時代を終わらせ、文化と経済の世界的な多様化をうながす生産・流通・消費の体系を創造すること、ひとことでいえば、各自が質の高いゆったりとした生活(スローライフ)を享受し、それが同時に生物多様性を保持するようなエコ・ソリューションとなる時代とその構造を創造することである。
その具体策は「食」の問題をはじめすでにたびたび述べてきた。
鳩山内閣の採点簿
上記の期待にはほど遠いが、鳩山内閣は発足時には華々しい花火を打ち上げ、好調にみえた。二酸化炭素25パーセント削減の世界公約や「コンクリートから人へ」のスローガン、あるいは公開の「事業仕分け」パフォーマンス(今回は予算策定時期が切迫し、やむをえなかったが、本来は数ヶ月かけて行うべきものである)などである。国民に多くの期待を抱かせたのも無理はない。
だがその後は迷走つづきである。普天間問題は一例にすぎない。それも日本の安全保障を今後どう構築して行くかというヴィジョンがまったくないことの副産物にすぎない。安全保障だけではない。すべての領域での一貫した全体的な長期的展望にまったく欠けているがゆえに、すべての領域で迷走せざるをえないのだ。
そのうえ政府・民主党内の旧態依然たる権力関係である。鳩山首相が小沢傀儡師の繰り人形であるらしいことがしだいに明確になってきた。小沢氏は院政どころか、政府・民主党を自在に繰る独裁者の風貌を表わしつつある。個人的には私は、旧知の仙谷由人氏などに多いに期待しているのだが、反小沢として知られている彼も手足を縛られるだろう。
とにかくわが国の2010年はあまり明るくない。
現代インドの鋭角的断面
弔問を兼ねて来訪された武蔵野大学の佐々木瑞枝教授が、いっしょに見ましょうとDVDを持参された。有名な映画“Slumdog Millionaire”である(邦訳題名・監督名など失念、インターネットで検索してください)。
20,000,000ルピーという巨額の懸賞金のかかったクイズ番組に出演し、賞金を獲得した青年の物語である。いきなりその番組の最終段階のオンラインの映像からはじまり、その合間にフラッシュとして彼の過去と、第1回の賞金獲得がインチキであったという告発にもとづく警察の拷問を交えた取り調べの場面が短く交錯し、しばらくは物語をたどるのに苦労する。
だがムンバイ(ボンベイ)の世界最大といわれたスラム――かつてムガール時代には低カーストのひとびとの集落であり、なめし皮などの生産でそれなりのゆたかな生活を送っていたが、植民地化とともに農村からのいわば避難民が集中し、スラムと化していった(北沢注)――に育つ少年時代の、貧困とそれなりに嬉々とした思い出に、イスラーム教徒狩りで父母が殺され、その果てに児童に芸をさせ(盲目のものは稼ぎが大きいと、こどもの目をつぶしたり)、その稼ぎを収奪する暗黒街の男や、そこからの脱走、タージ・マハールでの外国人向けのインチキガイド生活、そこでえた金でやっとまともなIT企業のお茶組汲みに雇われるまでの半生が、クイズ番組のスリリングな映像にはさまれながらもみごとに浮かびあがってくる。
生き別れとなった兄との再開の場面も、かつて彼らが生活した広大なスラムを取り壊し、再開発中の高層ビルの建築現場である。イスラーム教徒狩りに手を取り合って逃げた見知らぬ少女が、彼の恋人たなっていくが、その愛の物語もこれまたみごとにひとつの筋となってつながり、運命に翻弄された二人の純愛がきらりと光ることになる。
とにかくこの映画は、かつて植民地固有の貧困に翻弄され、ITによってにわかに経済的興隆をとげたが、他方格差の拡大によるテロや犯罪にゆれる現代インドを、社会批評的に鋭角的に断ち割った秀作といえるだろう。



