例年ならソメイヨシノが満開になってから山桜が満開になるのに、今年は同時である。斜面のいたるところにさまざまな色合いの山桜が、花柄を競い合っている。初鳴きは遅かったが、ウグイスがあちらこちらで鳴き交わし、今年は例年になくにぎやかだ。異常気象らしく、新緑の季節がはじまりかけ、ツツジが花芽をふくらませ、いまにも咲こうとしている。

車窓の天皇 

 偶然だが、思いがけない体験をしたので報告しておこう。6月5日、東京で演奏会があるので伊豆急線の普通電車に乗った。伊豆多賀駅は素朴な駅舎やプラットフォームのまわりにソメイヨシノの古木がつらなり、満開のいま青空に映えてそれは美しい。単線のすれちがいで停車時間も長く、風景を堪能していた。そこへ見慣れない黒い新型車両の電車が入ってきたが、2両目には窓もないという奇妙な車両で、その3両目が静かに止まったちょうど真向かいの窓の海側の席になんと天皇が坐っておられ、こちらを向かれたその視線が合ってしまい、私は思わず目礼をした。すると天皇もにこやかに会釈された。私の様子をみてふしぎに思ったらしい前の席の中年の女性が窓をのぞきこみ、「あっ、天皇陛下だ!」と大声を出し、まわりの乗客すべてが私の窓に集まり、歓声をあげ、手を振り、大騒ぎとなった。手を挙げてお応えになる両陛下(私の席からは動きだすまで皇后の姿はみえなかったが)の車両が動きだすほんの数十秒であった。 

 昔、幼稚園の頃、「皇太子さまお生まれなった」という慶祝の歌が一日ラジオで流されたのを覚えているが、天皇と私はほとんど同世代といっていい。敗戦後、疎開していた那須の御用邸からの帰途、列車の窓から目撃された一望の焼け野原の東京の光景が大きな衝撃であり、強固な平和意識を抱かれたというが、終戦記念日の追悼のお言葉などのはしはしにそのお気持ちや人間性がうかがわれ、つねづね好意を感じていたのが無意識の目礼になったのだろう 

 そのうえたびたび述べてきたように、わが国の天皇制はたんなる政治制度ではない。むしろ近代国家の政治制度としての天皇制は、もうひとつの隠された制度と矛盾しているとさえいえる。 

 もうひとつの隠された制度とは、「聖なる作物」ともいうべき稲作――神話では熱帯植物のイネは太陽の女神アマテラスが孫を通じて地上にもたらしたものとされる――を中心に、唯一神々と直接交信が可能とされる天皇が、豊穣と国の平安を祈って、ニヒノアヘに代表される種々の儀礼をおこなうものである。

 いうまでもなくこれは、いわゆる政教分離を定めた憲法に違反するため、天皇の私的行為とされる。だが文化的・歴史的には、この隠された制度のほうが重要であり、それこそが千数百年にわたって「国民統合」の役割を果たしてきたのだ。現代でさえも一般のひとびとの無意識には、この隠された制度への共感が秘められていて、それが天皇への熱狂を生みだしている。

 われわれはこの制度的矛盾を包摂しながら、この無意識の共感を、かつてのようなナショナリズムに利用されないよう努力しなくてはならない。むしろそのためにはこの隠された制度を、文化財保護と情報公開といった観点から公にすべきかもしれない。

自然権の確立 

 『ナショナル・ジオグラフィック』誌があいかわらず環境問題で奮闘しているが、2010年4月号の「水」特集は読みごたえがあるだけではなく、水にかかわる刻々と迫る恐るべき危機を伝え、戦慄的でさえある(日本語版も発売されているはずである)。 地球の真水の約70パーセントは南北両極とヒマラヤやアンデスなど高山地帯の氷雪や氷河に蓄えられていて、とりわけ高山の氷河はガンジスやインダス、あるいはメコンや揚子江・黄河、またナイルやドナウやライン、ミシシッピやアマゾンなど世界の名だたる河川の水源となっている。いまそれが危機的状況にある。 

 温暖化によってこれら氷河が溶融し、消滅しつつあるが、それによってヒマラヤでは無数の氷河湖が出現し、それらがいつ決壊して下流におそるべき大洪水を引き起こすか、懸念されている。また河川への水の供給が枯渇しはじめ、河川の水位の低下と、それによる水飢饉や生態系への深刻な影響が出はじめている。たとえば気候も大きな変動をこうむり、バングラデシュではもはや洪水が常態化していると思えば、インド北部や中国南西部は旱魃による災害に見舞われている。 

 子供の頃、客船で黄海をわたったことがあるが、見渡す限り茫漠とした黄色い泥の海で、黄海の名にそむかないその印象が強烈に焼きつているが、いまや黄海は名のみである。なぜなら黄土を運ぶ黄河の水は、もはや河口まで達することはないからだ。 

 ニューデリーの「水戦争」が恐ろしい。水が出なくなったスラムでは、毎日市当局の給水車が回ってくるが、人口の需要にはとうてい足りない。数日待ってやっと手持ちタンクに一杯といった状態であるだけではなく、行列の割り込みで暴力沙汰が頻発し、死人がでることもめずらしくないという。こうした状況が進めば、スラム以外の水供給も次第に不足し、数十年後には、ガンジスにたよってきたこの文明そのものが消滅しかねないという。 

 これらのなかで、エクアドルが世界ではじめて「自然権nature`s right」を憲法に明記したとする記事が注目された。つまり人権human rightのように、自然にその固有の権利を認めるものである。もし自然の権利が侵害されていると感じたら、だれでも訴訟を起こすことができる。たとえばたいしたメリットのないダムの建設が、住民の人権を侵害するだけではなく、自然がその生態系を維持する権利を侵害されると思えば、その観点からでも訴訟を起こすことができる(もちろん裁判では立証する資料が必要だが)。 

 世界のすべての国々が、エクアドルにならうことを期待したい。