しばしテッポウユリ依存症になってしまった。夜の室内に、どこかにひっそりとたたずむ貴婦人のようなあの純白の花弁と仄かな香りにすっかりしびれ、ひと花がしおれるとまたひと花と、庭から切っては挿し、切っては挿しを数週間つづけてしまったからである。その季節も終わった。秋の虫たちのすだきの季節となる。朝、食卓のマットのうえにコオロギがやってきて、野菜やハムを盛り付けた紺色の大皿の横に坐った。キュウリの切れ端をやったが、食べずにゆっくりと身を動かし、去って行った。その志へのお礼の意味か、夜、寝室の枕元で一晩鳴きつづけ、私を夢の国へと誘ってくれた。

厚顔小沢一郎氏出馬 

 「厚顔な男」という言葉は、このひとのために創られたのだろう。小沢一郎氏が民主党代表選への出馬を決断したという。検察審議会が起訴相当を決議するかもしれないこの9月に、である。さらに噴飯ものは、小沢氏に心中を迫ったばかりの鳩山由起夫前首相がこれを支持するという。あれは第2幕登場のための「道行」だったとでもいうのだろうか(「あのひとはどこか致命的なところが不感症」という青木の評言を思いだす)。しかし、反小沢陣営にとっては絶好の機会であろう。いわゆる小沢チルドレンの大半も政治的・道徳的に常識の持ち主であるだろうから、菅再選にまちがいはないし、その後の内閣改造や党人事にあたって徹底的に小沢派排除をすれば、うたがいなく党は分裂する。待ちに待った政界再編の好機である。菅・仙石・枝野3氏と、前原・野田・玄葉などそれを支持するグループ、さらには小宮山洋子や蓮舫氏ら女性議員や若手良識派、同じく良識派としての渡部恒三氏などの長老たちに奮起をお願いしたい(横路孝弘衆議院議長も私は旧知であるが、旧社会党グループがもし今回小沢氏を支持などしたら、もはや見限りたい)。

人種差別主義者ウィンストン・チャーチル 

 ジョージ・W・ブッシュ前大統領は、大のチャーチル崇拝者で、その胸像をホワイトハウスの大統領執務室(卵型の空間からオーヴァル・オフィスとよばれる)の目立つ場所に飾っていた。バラク・フセイン・オバマは大統領に就任し、ホワイトハウスに入るや否や、ただちにこの胸像の撤去を命じた。なぜなら彼のケニア人の祖父フセイン・オニャンゴ・オバマは、ケニア独立運動の闘士であったが戦後イギリス官憲に逮捕され、チャーチル首相が設置した強制収容所に送られ、拷問を受け、その傷は生涯消えなかったからである。 

 ウィンストン・チャーチルが近代民主主義や自由の信奉者であり、ヒトラーやスターリンなどの独裁政治を心から嫌悪していたのは疑いない。だがその自由の信念や人権感覚が、西欧近代、というよりもそれによって創りだされた現体制に限定されていたことも疑いない。たとえば1920年、アイルランドの独立運動が燃え盛ったとき、時の内相チャーチルは悪名高い「ブラック・アンド・タン(黒帽と褐色制服の治安部隊)」を派遣し、血まみれの弾圧を強行した。同じ白人ではあるが、大英帝国に反逆する「劣等種族」アイルランド人に我慢がならなかったのだ。まして非白人に対しては、その白人至上主義(ホワイトシュプレマティズム)は鼻持ちならないものとなる。 

 内相以前の陸軍将校時代、彼は植民地インドでの「野蛮人どもとの小さな戦争は大きな楽しみだった」と書き記しているし、中東でイギリス統治に対するクルド人の反乱が起こったとき、「非文明的な部族民どもに大いに毒ガスを使うべし」とも述べている。戦時中インドのベンガルで、旱魃やイギリスの食糧徴発による飢饉が発生し、政府部内でも早急に対策を図る声が起きたが、チャーチルは平然と「あいつらの自業自得だ」と放置し、数か月に数万人が餓死する事態となるまでなにも手を打たなかった。のちに彼は「私はインド人を憎む。あいつらはけだもののような宗教をもつ、けだもののような人間だ」と記している、

 戦後アフリカ各地で独立運動が火を噴きはじめると、首相チャーチルは各地に強制収容所の設置を命じ、オバマの祖父が体験したようなナチス・ゲシュタポまがいの拷問を行わせ、独立運動の壊滅をはかった。

 イギリスの若手歴史家リチャード・トイの『チャーチルの帝国;彼をつくった世界と彼がつくった世界』Richard Toye”Churchill’s Empire;The World That Made Him and The World That He made”と、ジョーハン・ハリ(Johann Hari)によるその書評が面白い(The New York Times Book Review,August 15,2010)。

 要するに白人至上主義者にとって、自由も民主主義あるいは「正義」も、彼らのものでしかなく、遅れてやってきたものあるいは劣等種族には、文明化のために少量分け与えてやる貴重な財産にすぎない。それを尊重しないもの――現在はいわゆるイスラーム過激派だ――は、暴力をもって制裁すべし、といのが本音である。

サマー・フェスティヴァル2010 

サントリー芸術財団が毎夏行っているサマー・フェスティヴァルの「音楽の現在」(8月25日)が楽しめた。 

 イェルク・ヴィトマンの『コン・ブリオ―オーケストラのための演奏会用序曲』、ブリース・ポゼの『女性舞踊家;交響曲第5番』、マルティン・スモルカの『テューバのある静物画または秘められた静寂―2つのテューバとオーケストラのための3楽章』、エンノ・ポッペの『市場―オーケストラのための』の4曲で、なかなかいい選曲であった。 

 ベートーヴェンの交響曲第7番と第8番を背後に意識し、そのイ長調とヘ長調を取り込みながら、湧き立つようなフル・オーケストラの混沌とした音響を背景に、金管のファンファーレらしきものが微妙に絡み、木管が息音のみでささやき、種々の打楽器が精緻なノイズを加えと、多彩に展開する『コン・ブリオ』。 

 異なった星のうえの踊り手をイメージし、その動きをフル・オーケストラの微細きわまる運動によって表現しようとした『女性舞踊家』。 

 さまざまな断片的動機が絡みあい、しだいにまとまりあったり分散したり、それら全体が大きなうねりとなって繰り返され、音響のダイナミックな集積となって聴衆の身体をゆさぶる『市場』。 

 それらのなかでとりわけ『テューバのある静物画』が心を打った。いま現代文明への批判としてスロー・フードやスロー・ライフ運動が高まっているが、その意味でまさにこれはスロー・ミュージックであり、音の形ではなく精神において、われわれの御神楽や能の音楽に共通する深い瞑想的な音楽だといえる。二つのテューバがソロとして登場するが、演奏技術をひけらかすようなものはまったくなく、ほとんど静かな持続音やその微細なゆらぎを吹き、ときには息音だけをひびかす。フル・オーケストラであるにもかかわらず、各楽器や首席奏者たちのこれも微細なヘテロフォニーが織りなされ、深い背景を描いていく。ときには全楽器が静かに停止し、指揮者を含め、全奏者がその姿のまま凍りつき、長い休止をする。どうぞ瞑想してください、というかのように。 

 西村朗や新実徳英の音楽(佐藤聡明もそうだと思うが)についてたびたび語ってきたが、これらの曲にはまずなによりも「音の喜び」の復活があるし、スモルカの『静物画』に代表されるように、近代文明に対する深い批判がある。