百日紅の淡紅色の花々は色あせたがまだ風に揺れ、例年ならではじめるヴィラ・マーヤのススキの穂はいまだに気もないという奇妙な初秋である。暑熱もようやく収まり、今日は肌寒いほどの気温である。

先日のコオロギらしいのだが、朝、ヨーガをやっている絨毯の上に近づいてきた。危ないので部屋の隅に誘導し、キュウリの端をあたえたら、皮を残してきれいに食べ、いずこかへ去った。

菅首相の再選 

 民主党の代表選挙でメディアはたいへんな騒ぎであった。たしかに一国の首相を選ぶ重要な選挙にはちがいないが、国民のかなりの部分は醒めてしらけていたと思われる。小沢対反小沢の対決を必要以上に煽りたてるメディアのセンセーショナリズムは、今回に限らず、つねにほんとうの争点や問題を隠してしまう。つまり今回のほんとうの争点や問題とは、わが国の未来にかかわる重要な選択が存在しているにもかかわらず、二人ともその答えを用意できなかったという「問題」であり、その意味でこの王様たちは裸であったという事実である。 

 そのうえ前回の日記で書いたように、私は菅再選を当然だと思っていたが、せいぜい160票程度と考えていた国会議員の小沢票が200もあるのに驚いた。民主党でさえ「永田町の論理」つまり恩故や利権や上下関係などという旧態依然たる論理に支配されているという事実に、暗然としてしまった。 

 こうした組織の中では、頼りないとはいえ、開かれた党を唱える菅氏にまだ希望がある。国民にむかって開かれた党であるだけではなく、当選回数や役職、あるいは年齢や所属グル-プに関係なく平等に発言し、時には激論をたたかわせ、そのなかから政策的合意を創造していくような、「民主党」の名に値する党をまず創っていっていただきたい。ほんとうにそのような政党が実現すれば、わが国の政治の未来に大きな期待を寄せることができるだろう。

「戦後民主主義の終焉」 

 またもや自己宣伝になって恐縮であるが、藤原書店の総合雑誌「環」に、「戦後民主主義の終焉――丸山真男批判」と題する論文を書き、その校正が送られてきた。すでにこの日記でもたびたび繰り返してきたアメリカの戦後リベラリズムや日本の戦後民主主義批判である。それらが果たしてきた歴史役割は高く評価しなくてはならないが、冷戦終結やグローバリズム崩壊後の今日の世界ではその役割は終わり、今後の世界を築いていく知ではもはやありえないことを論じた。 

 なぜなら近代の知を創りあげてきた近代科学そのものが、終焉の時を迎えているからである。たとえばその論文「歴史意識の『古層』」で丸山が無残な誤謬を冒したのは、彼の政治思想史の方法論そのものに根本的な誤りがあったからだ。すなわち文献という「書かれたもの(エクリチュール)」のみを分析する思想史は、そのいわば水面下に存在する感性や感覚を含む膨大な無意識の思考を全く考慮しない。それを分析しない限り、水面上にあらわれた氷山の一角としての文献を正当に解釈することはできないのだ。 

 ただこの批判を書くために、丸山真男の諸著作を書棚から取り出したが、そのたびに心が痛む経験をした。つまり自伝にも書いたように、丸山真男は社会科学とは何かを私に教えてくれた師であり、著作の見開きには「謹呈・北沢方邦学兄」などという署名が必ず記されていたからである。大相撲では相撲を教えてくれた大先輩を土俵上で倒すことを「恩返し」というが、この論文はその意味で恩返しだと思っている。 

 なお「環」のこの号には、青木やよひ追悼の小特集も掲載されるので、ぜひお読みいただきたい。