仲秋の名月までは暑熱がつづき、その夜は家中の灯りを消し、涼しい風を楽しみながら露台で月明かりを満喫したが、翌日からは打って変わった「冷気」で、秋の衣類やら寝具をあわてて用意する次第であった。植物たちもあわてたとみえ、今日は桜の葉が急速に黄ばみ、散りはじめている。乾燥地帯パキスタンの大洪水など異常つづきの世界の気象の一端であった日本の猛暑も、ようやく終わりを告げたが、やってきた秋も少々異常含みだ。

帝国主義・ナショナリズムの恐ろしさを知らない国々 

尖閣列島の領海内で操業する中国漁船の排除と、それによって起こった海上保安庁巡視船への衝突事件で、日中間の雲行きが怪しくなっている(日本側に全く問題がないとはいえない。つまり下手な政府の対応、操業停止と退去だけで済ませえたはずの海上保安庁の対応など)。領土問題でいえば、歴史的にみても琉球王国に所属していた尖閣列島が日本の領土へと帰属することになったのは明かだが、琉球王国を属国とみなしていた明や清、つまり中国が領土権を主張するのもまったく根拠のないことではない(きわめて希薄な根拠であるが)。

しかし尖閣問題に限らず、南シナ海のスプラトリー諸島(西沙・南沙諸島)などの領有権を強硬に主張する中国の姿勢は、ティベット問題やウィグル問題と並んでいささか異常というほかはない。中南海、つまり中国共産党指導部の内部での次期指導層をめぐる権力闘争を指摘するむきもあるし、また大衆によるインターネット・ナショナリズムの過熱への現指導部の恐れもあるかもしれない。しかし問題はもっと根深い。

パレスティナやアメリカの反対を押し切って、和平交渉を決裂させる危険を冒して入植地での住宅建設を再開したイスラエルも同じだが、中国もまた、近代の帝国主義やそのナショナリズムの悲惨な被害者ではあったが、みずからそれを体験したことがない歴史をもっている。

古代や中世にも諸帝国が存在したが、近代の帝国主義がそれらと決定的に異なるのは、近代の資本主義的経済体制がもつ利潤追求の飽くなき欲望のメカニズムを背にしている点である。つまり経済的合理性の追求が、自動的に領土または植民地の拡大や資源の果てしない収奪を生みだすことである。現在はこうした旧帝国主義はほとんど存在しないが、それに代わり経済的合理性の追求は、不公正な貿易を通じての一次産品輸出国の搾取、つまり植民地なき新植民地主義のかたちをとっている。

いずれにせよ問題は、中国やイスラエルでは、帝国主義の被害者意識は強烈だが、みずからがとる帝国主義的姿勢にはまったく無感覚だという点である。たしかに中国では、文革時代に唱えられた「覇権主義反対」を、少なくとも文革時代には対外的には実践していた(それでもティベットやウィグルなど少数民族に対しては覇権主義的であったが)。だが国家統制下にあるといっても、資本主義的に高度成長を遂げつつある現在、その経済合理性の要求する利潤追求のメカニズムは、明かに新帝国主義的覇権を要求している。また私的欲望を増大させている大衆は、大国意識に酔い、覇権を求めるナショナリズムを煽り立てる。少数意見を吐露する自由や場のないことが、それらに対する歯止めをまったく失わせている。それが問題の根底なのだ。

こうした隣人と付き合うのは容易ではない。だがむしろ、少なくとも軍事的・政治的覇権を放棄したわが国は、旧帝国主義時代への深い反省を込めて、先進諸国のグローバリズム崩壊後の今後の世界のありかたを、この隣人と深くじっくりと話し合うべきではないか。菅内閣にもこうした姿勢を望みたい。