いつも朝雲にさまたげられてきたが、今年は雲ひとつない快晴で、2階の書斎から大島の三原山の左肩から昇る荘厳な初日の出を望むことができた。何十年ぶりである。われわれの祖先がつねにそうしてきたように、思わず合掌し、柏手を打つ。

年末例年より寒冷な日々が多かったにもかかわらず、庭の早咲きの白梅がほころびはじめている。この季節はじめてリンゴなど果物の皮や少量の中身を刻んで、ツツジの植え込みの突端にだしておいた。ヒヨドリたちがけたたましく叫びながら喜んで食べている。

暮れに年賀状を投函し、お節料理の食材をホビット村に注文したあとで、22日の冬至の日の夜、入院中の母が死去した。103歳であった。風邪気味で早く寝ていたが、11時ごろ妹から電話で知らせがあった。眠るように息を引き取ったとのことで大往生といえよう(遺言で葬儀はない)。起きて窓外を眺めると皓々たる名月であった。暦の上では旧十一月十七日であるが月齢は十六夜といえる。そこで冥途の旅路のはなむけに:

          十六夜[いざよい]の月に送られ、旅立ちぬ

2011年は? 

菅内閣の無能や迷走で閉塞感はいっそうひどくなっているが、たとえ他の内閣であってもこの状況を根本的に変えることはできないだろう。なぜならこの状況は構造的なものであり、長期的なヴィジョンにもとづき構造を変える政策を実行しはじめないかぎり、従来の政治理念や政策ではつねに状況の後を追う弥縫策しかありえないからである。

構造を変えるといっても、小泉流のいわゆる構造改革ではない。それはグローバリズムの受け入れ政策でしかなく、わが国をほとんど修復不可能な格差社会に追い込んだものであり、むしろそれは深刻に反省すべき反面教師にすぎない。

長期的ヴィジョンについてはこの「日記」でもたびたび述べてきたので繰り返さないが、要するに地球本来の姿や在り方にもとづいてテクノロジーや産業を方向づけ、経済成長ではなく、生活や文化の内的なゆたかさや創造性をめざす社会や体制を造りあげることである。少なくとも2酸化炭素25パーセント削減という目標を掲げた環境政策をほんとうに実現するシステムを追求すれば、そこにおのずからひとつの突破口が開ける。2011年はそれを切り開く年であってほしい。

「坂の上の雲」と明治ナショナリズム 

NHKのいわゆる大河ドラマは、細部を延々と描く退屈さや不自然で誇張した演技など、見るに耐えないことが多いのでいつも敬遠しているが、年末に限定して放映している「坂の上の雲」(今回は第2部)は、かなりよくできたドラマといえよう。巨費を掛けてもいるが、1年をかけて一部ずつ制作するというゆとりと、限定された放映時間のなかで集中的に表現しようとする意欲がそれを可能にしたといえる。

日清戦争を扱った一昨年の第1部では、すでにその頃から芽生えていた中国人への侮蔑という人種差別や、戦闘に逃げ惑う中国の難民たちの姿など、否定的側面もかなりリアルに扱っていたし、その意味では歴史をかなり公正に客観的に描こうとしていた。

第2部は日露戦争の前半が主題であるが、ここではたとある種の困惑感におちいることとなった。たとえば第2部の主人公のひとりが海軍少佐広瀬健夫である。ロシア派遣中に貴族令嬢と恋に落ち、帰国時に贈られた彼女の肖像写真入りのペンダントを肌身離さず、旅順港口閉塞作戦の指揮官として活躍し、第2次作戦遂行中に戦死するが、そのペンダントが海中深く沈んでいく情景など、人間的な情感にあふれる描写が、逆に戦前の「軍神広瀬中佐」(戦死後1階級昇進した)と重なって見えはじめたからである。

つまりこのドラマ全体が、歴史に忠実であろうとすればするほど、個々の事実を超えてその時代の歴史を支配していた「歴史のエートス」とでも名づけるべき力を無意識に体現するにいたるのだ。

この時代の歴史のエートスとは、いうまでもなく明治ナショナリズムである。第2次世界大戦の敗北にいたるまで、明治ナショナリズムはわが国を呪縛していたといっていい。欧米の帝国主義列強に追いつけ追い越せというこの歴史のエートスは、帝国主義による近代化がいかに破滅的な結果をもたらすか、またたとえ欧米のような勝者であっても世界にいかに非人間的な抑圧をもたらしたか、を教えてくれた。

だがこの教訓をドラマとして盛り込むことは至難のわざである。列強を「坂の上の雲」として仰ぎ、そこにたどりつく「希望」にあふれていた明治ナショナリズムの時代を、そのまま表現することの恐ろしさを自覚しなくてはならない。とりわけすべてにわたって閉塞状況にある今日、それは明治ナショナリズムへの大いなる郷愁を呼び起こし、この閉塞状況を打破する「英雄たち」への待望を増大させかねないのだ。

何時の時代でも、「坂の上の雲」は雲、すなわち幻影でしかない。『テンペスト』で、そこがすでに戦争による荒廃の地となっていることを知らない無邪気なミランダが、「すばらしい新世界a brave new worldに帰るのね!」と叫ぶように、ひとびとにとってすばらしく見えるそれは、一瞬に消える幻影であるよりも、むしろつねに荒涼とした反世界であるだろう。