7月9・10日のフォーラムのセミナーには間に合わなかったが、ヴィラ・マーヤのヤマユリが草の緑を背景に白く咲きはじめた。今年は例年より盛大に咲き誇りそうだ。梅雨明けの暑さでウグイスやホトトギスの鳴き声が間遠になったが、それでも涼しい朝夕はあちらこちらで鳴き交わす。梅雨明けのまえ30度となる日もあったが、いまは28度前後で安定した気温である。樹間を海風がさわやかに吹き抜ける。
なにが問題か
昨年の菅内閣の発足時に、旧知の間柄とて菅氏に総理大臣就任の祝辞を送ったが、期待を裏切られつづけてきた。だが問題は、他の内閣であったなら、この未曽有の大災害と原発大事故という異常な状況を適切に処理できたかどうかである。その答えはおそらく否定的であるだろう。なぜなら、わが国はたんに危機管理だけではなく、政治的意思決定の回路がきわめて脆弱、というよりも、たとえリーダーシップをもつ首相であってもそれを十分に発揮できないシステムとなっているからである。民主党が唱えた「政治主導」は、諸官庁に多くの議員を役職者として送り込むことによって、政治的意思決定の回路を補強しようとしたのだろうが、肝心の意思決定すべき政策内容が貧困であり、さらに小沢対反小沢などといった政策以前の醜い派閥対立(小沢派と鳩山前首相に多くの責任がある)が介在し、意思決定ができないという醜態をさらしてしまった。
そのうえさらに根本的な問題がある。すなわち、すでに今回の大災害以前に、原発を大々的に推進してきた高エネルギー・高生産・高消費の「輸出立国」型経済体制の、膨らみきったバブルの破裂、金融工学にもとづくグローバリズムの世界制覇の挫折(近い将来にはおそらくいわゆる新興国のバブルの破裂)など、歴史的な袋小路に陥った文明の転換への要請がかつてないほど高まっていたにもかかわらず、自民党を批判し、「政権交代」を主張した民主党にも、場当たり的な改善策(それも高速道路無料化などといったほとんど無意味な)以外に、なんのヴィジョンも長期政策もなかったことである。
現在の危機的状況のなかで、浜岡原発停止要請以来の菅氏の原発に関する諸「発言」は、それ自体きわめて妥当なものである。10年前の私のアドヴァイスがようやく効いてきたかという感がなきにしもあらずだが、たとえ独断専行であろうとも、文明の転換の第一歩は「脱原発」にほかならないし、そのための国民的議論の展開に火をつけなくてはならないからである。
軍事利用であれ平和利用であれ、核開発は現世代だけではなく、人類の後続世代に大きな危険と負担を残す。老朽化した核弾頭や使用済み核燃料の増大し続ける蓄積、その生産や処理にともなう高濃度の放射性廃棄物など、完全な無害化には10万年を要するこれらのものを、安全に処理し、貯蔵する技術はないと断言してもさしつかえない。
核エネルギーに転換できないウラニウム238に強力な中性子をあてて燃料とするとともに、プルトニウムを増殖するという高速増殖炉は、冷却材にきわめて危険な液体ナトリウムを使うため、事故つづきで各国は撤退したが、わが国の「もんじゅ」は事故で停止したまま、まだ撤退はしていない。これは軽水炉などよりはるかに危険な設備である。「夢の原子炉」などという核融合炉は、開発・研究に巨費が投じられているが、水素爆弾の原理、つまり太陽が燃える水素核融合の原理を安定的にコントロールする技術、いいかえれば軽水炉などと数桁ちがう超高温(太陽の表面温度は600万度である)を安定的に制御する技術は、おそらく完成不可能である。そのうえトリチウムや中性子など危険きわまる物質も不可避であり、また膨大な廃熱も予想されるこの「超高温」で、発電用のお湯を沸かすのですか?とからかいたくもなる。
菅首相の延命に手を貸すつもりは毛頭ないが、近代文明の転換のために、とにかく核開発に未来はなく、「脱原発」がその第一歩だという発言だけは、執拗につづけていただきたい。



