空前の豪雨で紀伊半島に大きな被害をもたらした台風12号は去り、秋めいたさわやかな晴天となった。紀伊に似た山地の伊豆半島が直撃されていたらと、とても他人事とは思えない。さいわい伊豆高原は溶岩台地で、地震に強いだけではなく、雨にも強いが。

秋の虫の季節となり、夜、仄暗い居間の片隅の、台風時に取り込んだいくつかの植木鉢の緑の葉叢あたりで、カネタタキが静かに鳴いている。大震災や台風の死者たちへの、かそけき鎮魂であるかのように……

感性と魂の国際政治学 

知と文明のフォーラムの財団設立記念の会の準備も手を離れたので、いただいたままでまだ読了していなかった二つの回想記を読むことにした。ひとつはフォーラムの評議員である石田久仁子さんの訳されたシモーヌ・ヴェーユの回想記であるが、これは近くこのブログに書評が掲載される予定となっている。もうひとつは同じくフォーラムの顧問のおひとりである坂本義和さんの『人間と国家─ある政治学徒の回想』上下(岩波新書)である。

これは坂本さんの自伝といっていいが、副題に示されているように、彼の学問や思想の遍歴を踏まえた誠実な記録であり、同時にそこから20世紀の歴史の本質がかいまみえる得難い本である。

自伝というと、たとえば日本経済新聞の「私の履歴書」などを思い起こすが、財界人は別としても、その多くは生い立ちの記を経ると、しだいに仕事上の自慢話ばかりとなって辟易させられ、途中から読むのをやめることになるが、この本はまったく逆であるといっていい。国際会議なども事実を淡々と記述しているだけなので、登場する人名が、これはあの国務長官になったキッシンジャーかな?これはあの『孤独な群衆』のリースマンかな?これはあの『文明の衝突』のハンティントンかな?と推測するほかはないほどである。

そのうえ50年来のおつきあいのある私でさえも、坂本さんはたぐいない理性と知性の持ち主であると思いこんでいたが、これを読むとじつにゆたかな感性と感受性を備えたひとであることがわかる。

幼年時代を過ごした動乱の時代の上海での体験は、心をゆさぶる。恐るべき差別に耐え、戦乱のなかを逃げ惑い、必死に生きる中国のひとびと、銃弾や砲弾の飛び交う市街戦で、一瞬の爆発で影も形もなくなる日本兵など、生々しい描写だけではなく、それらを通じて幼心に刻まれた国際関係の複雑さや国家が嘘をつくという不信感など、すでに後年の鋭い洞察が芽生えている。

そこから敗戦にいたる歴史はわれわれの世代に共通にするものだが、戦時下のあの息詰まるようなきびしい軍国主義の支配と統制のなかで、旧制高校(一高)にはまだ伝統的な自由で寛容な雰囲気が残り、とりわけ寮を中心とした乱雑ではあるが抜きんでた自主性を重んじる学生生活は、何事もすべてを自分で考え、判断する力を養い、時代に対する批判的精神を養っていたようだ。当時軍国主義的な環境に浸りきっていた私などには、うらやましいとしかいいようがない。

いずれにせよ戦後、東京大学法学部に進み、研究室に残り、やがてアメリカのシカゴ大学に留学して坂本さんの経歴(カリア)がはじまる。それと同時にはじまったのが、政治学を中心としてではあるが、彼の思想的遍歴である。戦後日本の思想界を席巻していたのはいうまでもなくマルクス主義であったが、『資本論』の購読会に参加し、プロレタリアに対するマルクスの深い愛情に感動しながらも(感性のひと!)、それが描く未来像に強い違和感を感ずるなど、戦後の日本思想の動向がここからも展望できる。

1960年のいわゆる安保闘争、さらには60年代末から70年にかけてのステューデント・パワーとそれによるいわゆる東大紛争なども、そのただなかで生きた彼の記述を通じて、「歴史」が良かれ悪しかれ生みだしていくダイナミズムを読みとることができる。とりわけ後者では、大学当局というか、その意味では体制側にあった彼の観察と判断は、しかしきわめて公正であり、それによって事件の全体像が明らかとなっているといってよい。全共闘系の学生たちが、最終的になにを目指して戦っていたのか、彼ら自身にもわからなかったのではないか、という指摘は至言である。ユートピア主義の陥りやすい陥穽がそこにある。

その後彼は平和研究に打ち込み、国際平和学会会長などを務めて世界のいたるところで開かれる種々の国際会議に忙殺されるが、一般の読者には、このあたりの記述は数多くの人名を含めていささか煩雑かもしれない。だがそれらの経験を通じて到達した最後の結論は、読むものを深く感動させる。この最終章「冷戦終結と21世紀」だけでも本書は読む価値がある。

「自由」や「人権」といった20世紀を主導してきた概念について、東日本大震災やフクシマ原発大事故の教訓を踏まえ、彼は主張する。「……21世紀の市民社会では、この理性的観念[人権]のさらにその基礎として、《他者の尊厳に対する感性》の共有を重視していくべきだと考えます。……《他者のいのちに対する感性》あるいは《他者のいのちに対する畏敬》です。《他者》としての人間との共生だけではなく、自然と共生するという……《いのち》に対する感性が不可欠だと考えるからです」(下p.226)

かつて啓蒙主義的理性の支配する近代を超えることを説いたルソーが、人間相互のみならず、万物への「あわれみ(ピティエ)」が、新しい世界を生みだすもっとも重要な絆であり、概念であると説いたが、このことばは坂本さんの結論とともに、東日本大震災とフクシマ原発大事故の今日にこそ必要不可欠なことばである。