三月も半ばとなれば、さすが陽射しは暖かである。久しぶりの晴れ間にウグイスたちが一斉に鳴きはじめた。初鳴きは一週間以上も前だが、梅の開花といい、ウグイスの初鳴きといい、例年になく遅かった。伊豆高原駅構内の数本の河津桜が、これも遅く淡紅色の花を満開にさせているが、奇妙なことにそれらの花枝に緑の新芽もではじめている。

東日本大震災一周忌 

東日本大震災の一周忌である。国立劇場で、地震の発生時刻に合わせ、政府主催の追悼式典が行われた。野田首相の形式張った追悼式辞より、天皇のおことばのほうが、はるかに真情がこもり、感動的であった。

それはともかく、あの大震災とその余波の数カ月も、そしていまも、私はそれに対する言語をずっと失ったままだ。膨大な数の死者や行方不明者への追悼の心、被災し、また放射能に避難を余儀なくされたこれも膨大なひとびとへのおもいやりの心を失ったわけではけっしてないが、それを表現する言葉がない。

むしろ私自身が被災者であったなら、あるいは肉親や友人たちを失っていたら、表現の言葉は溢れ、追悼の詩さえ書けたかもしれない。

だがいま私の心に残るのは、巨大なむなしさだけである。

たしかに正確な記録のない古代はともかく、日本列島を襲ったM9というかつてない巨大地震や巨大津波は「想定外」かもしれない。それによって生じた福島第一原子力発電所の大事故も「想定外」であったかもしれない。だが前者の「想定外」はまだしも、後者の「想定外」はけっして許されることばではない。なぜなら私を含めて、世界の心あるひとびとや専門家たちが、1960年代から原発の危険性、とりわけ地震列島であるわが国に建設することの危険性を訴えつづけてきたにもかかわらず、政府もメディアも無視しつづけ、少なくともフクシマまでは、大多数の国民に安全神話を植え付けてしまったからである。

もうこの主張は繰り返したくない。なぜなら、大事故が起こらないかぎりだれも原発の危険性に耳を貸さなかったように、この文明が現実に破滅しないかぎり、近代文明が完全な袋小路にはいりこみ、出口のない状態にあること、そして文明の構造やシステムそのものを変革しないかぎり、いつか破滅にいたるであろうことに、だれも耳を貸さないからである。

いま私の耳の奥に、『バガヴァッド・ギーター』の恐ろしいクリシュナのことばが、雷鳴のようにひびく:

「われ、世界を滅亡に導く大いなる死(時間)なり。諸世界を打ち砕くためにここに来たれり!」(11-32)

それと不可分に、クリシュナのもうひとつの声が静かにひびく:

「汝らの思考のなかにわれ(クリシュナ)いまさば、わが恩寵により、汝らすべての苦難を乗り越えん。もしおのれに固執して耳を貸さねば、汝ら破滅せん」(18-58)

いま文明の皮相なゆたかさに酔い痴れている人たちには、ぜひ『バガヴァッド・ギーター』を紐解いてほしい。

訂正●日記【118】のグエン・ティエン・ダオさんの綴りはNguyen(yが入る)、
またグエン王朝の漢字は「玩」ではなく「阮」の誤りでした。訂正します。