わが家の遅咲きのアジサイが満開である。土壌が酸性かアルカリ性か、あるいは中性かで花の色が変わるが、隣りあっているのに、片方は赤紫、他方は青である。今年は雨が多かったせいか、庭一面の苔が、踏みしめると鮮やかな緑の分厚い絨毯のような感触で迎えてくれる。
ヒッグス粒子狂想曲
ヨーロッパ核研究センター(CERN)のLHC(大ハドロン衝突機)での実験で、「幻のヒッグス粒子」、発表によれば「ヒッグス粒子らしきもの」が検出されたと、世界中のメディアが大騒ぎである。
素粒子物理学の「標準理論」または「標準モデル」によれば、宇宙を構成する物質の究極の単位は「素粒子」であり、18個あるとされるが、そのなかのヒッグス粒子だけは未発見とされてきた。いまから約137億5千万年まえに起ったとされる宇宙のビッグ・バン時に、超高温・超高圧下で保たれていた宇宙の対称性は、10のマイナス12乗秒時で急激に冷却され、対称性を自発的に失ったとされる(南部陽一郎博士の理論)が、そのとき飛散した多くの素粒子が「ヒッグス場」つまりいわばヒッグス粒子の海で沐浴することで質量をえたとされる(光子など質量のない粒子も依然として存続したが)。つまりヒッグス粒子は宇宙の質量の生みの親とされる(ピーター・ヒッグス博士の理論)。
原子核を構成するプロトンなどの重い粒子をハドロンというが、これを衝突させて破壊することによってヒッグス粒子が検出できるのではないかという主目的でLHCは建設され、14テラ(兆)電子ヴォルトという目下世界最大の出力を誇る衝突機である(日本のメディアでは「加速器」とされているが、加速器[アクセレーター]は線形でターゲットに衝突させるが、衝突機[コライダー]は円形であり、中央で粒子相互を衝突させる)。
何百兆回繰り返した実験で、既定の粒子に同定できなかった素粒子約2千が検出され、統計的にヒッグス粒子に同定可能とされたものである。それが「標準理論」の枠組みを最終的に完成させる大発見であることはたしかであるだろう。
だが問題は「標準理論」そのものである。いまや20世紀後半、物理学を絶対的に支配してきた標準理論の王座は確実にゆらぎ、黄昏の色をおびている。この宇宙を構成する無数の銀河が表している目にみえる物質やエネルギー、つまり標準理論のあつかう対象は宇宙の全質量のわずか数パーセントにすぎず、まったく目にみえない暗黒物質や暗黒エネルギーとその巨大な重力が、この宇宙を支配している。だがそれがいったいなんであるのかいまのところまったくわかっていない。
さらに21世紀有力となってきたストリング理論は、標準理論をその一部として包括しながら、まったく新しい視点から世界像や宇宙像を創りなおしつつある。このヒッグス粒子とされるものも、われわれの3次元空間という「ブレーン」(3次元全体がブレーンつまりある種の目にみえない「膜」とされる)を突破して異次元に飛散するループ・ストリング──普通のストリングは3次元空間ブレーンを超えられない──であるという解釈もできなくはない。
暗黒物質や暗黒エネルギーといった「隠されたリアリティ」、あるいはこの目にみえる宇宙に多くの宇宙が重ね合わせの状態で存在するとされる多重世界のリアリティなど、ストリング理論の最先端では、多くのすぐれた頭脳がこれらの問題に挑戦し、苦闘をつづけている。
近代的思考の延長上で微視的世界の探求をはかり、答えを見いだそうとした量子力学から標準理論にいたる道は、多くの近代科学同様、袋小路に逢着したといっていい。ストリング理論の開示する道、だがまだ多くの謎や霧に包まれた道は、しかしながら脱近代の知とはなにかという問いに確実に応えようとしている。
「フクシマ」によっていわゆる原子力ムラの閉鎖的構造が明らかとなったが、わが国では原子力ムラにかぎらず、また自然科学・人間科学を問わず学界はきわめて閉鎖的であり、メディアに送り込まれた人材も、多分にその体質を受け継いでいる。学界やメディアが袋小路に陥った近代科学を超えて未来を展望できないのも当然といえよう。
われわれはいまこそ「ヒッグス粒子狂想曲」を超えて、脱近代の知、さらには脱近代文明そのものを展望しなくてはならない。



