寒気の南下が早かったせいか、今年は雑木類の葉も,枯葉色というよりも黄色味を帯び、ハゼ類のみごとな紅葉と映えて美しかった。その大半は落葉し、苔を蔽っている。かつてはこまめに掻き集めては焚き火をし、焼き芋などを楽しんでいたが、条例で野焼きが禁止され、植木屋さんに始末してもらうほかなくなった。ヴィラ・マーヤを含めると20本以上にもなる落葉樹の葉は、もはや私の手にはおえない。

総選挙の選択  

混迷をきわめた民主党政権が終わりを迎えているが、状況は一層の混迷の度を深め、国民を戸惑わせている。

とりわけ憲法改正と国防軍の創設、日銀による国債引き受けや3%という途方もないインフレ・ターゲット論など、危険な外交・経済政策を唱える安倍晋三氏率いる自民党、あるいはウルトラ・ナショナリストの石原慎太郎氏と変わり身が早く独断的な橋下徹氏らが代表をつとめる日本維新の会は、たんに政治の右傾化というよりも、袋小路に陥った近代文明の最後の悪あがきともいうべきものを示している。

それはかつてのファッシズムや軍国主義の再現ではありえないが、国際関係や経済体制をある種の瀬戸際まで追い込み、そこから転落することでわれわれの国そのものや大多数の国民の生活を危険にさらす大変なリスクをともなう政治をもたらすにちがいない。安全神話を信じ、たとえ消極的であれ原発推進体制を支持してきた大多数のひとびとが、3・11で愕然と目覚めたように、いつかわが国やわれわれの生活がそのような恐るべき状況に突き落とされてはじめて目が覚めたのでは、もはや手遅れなのだ。

その点では、政権交代を望んだひとびとを裏切り、今日の政治的混迷の根本原因を招いた民主党は、厳しい批判を受けるべきではあるが(3・11やフクシマの処理にあたった菅直人政権の対応はけっして悪くはなかった)、それらの勢力よりははるかにましだ、というべきであろう。

政治にはベストはありえなし、ベターさえないといってもいい。ベストの政治はせいぜい「ノット・バッド(悪くない)」でしかない。そのノット・バッドでさえ稀なのだ。今回の総選挙は、ワースト(最悪)を選ぶかワース(より悪い)を選ぶかという選択であり、危険な道を望まないならば、ワースを選ぶしかないといっていい。

嘉田由紀子滋賀県知事が、脱原発の一点に絞って日本未来の党を立ちあげ、いわゆる第3極で維新の会などの路線に反対する勢力の結集を図り、ある程度の期待をもたせるが、背後に政治資金で疑念をもたれ、権力志向の小沢一郎氏の影があるのが気にかかる。もしかなりの議員が当選したとすれば、いつかその影が影でなくなる恐れがあるからである(もはや耐用年数をはるかに超えているというべき社民党などは、解体して未来の党に吸収されるべきである。多様な勢力が入ることでその影を影のままにとどめておくことができるだろう)。

いずれにせよ、もはや未来の扉を閉ざされている近代文明の転換をはかり、資源やエネルギーの浪費ではなく、効率化した再生や再循環にもとづき、かつての自給自足体制とは異なる地域や新しいコミュニティの自立型経済を促進し、それらの網の目によってひとびとが安定したゆたかな生活を送れるような社会体制をつくりあげ、それによるフェアな貿易や交流を行う国際関係を築いていかなくてはならない。

こうしたヴィジョンにもとづいて当面の政策を立案すべきであり、またそれを目指す勢力を結集すべきであるが、少なくとも脱原発と原発に代わる明確なエネルギー政策による結集は、その第1歩となりうるだろう。投票日までに未来の党がどのようなかたちになっていくか未知数であるが、深い関心をもって見守ろう。