『清作の妻』

今、女が手にしている五寸釘の切っ先は、まもなく夫の両眼に突き刺さるだろう。夫は失明し、兵役を免れるだろう。その結果、世間の顰蹙を買いつつも、少なくとも命は長らえるに違いない。出征祝賀会の座を離れて、たまたま拾った釘を手にして、妻がとっさに思い描いたシナリオはこうだろうか。いや「兵隊失格」、ひたすらこの一念かもしれない。

夫の出征を阻む窮余の一策がこの行動らしいのだが、夫に失明という犠牲を払わせる妻に、ある種のエゴイズムを感じる人もいるに違いない。それが的外れだとは思わない。わたしたちの情にしろ、愛にしろ、幾ばくかのエゴイズムと無縁ではないのだから。ただ、この妻の名誉のために一言書き添えておきたい。右手に握った釘の切っ先は自分の左手に向かっているということを。つまり、傷の痛みを感じるのは、夫だけでなくもう一人の「わたし」でもある。

それにしても、清作の妻を演じる若尾文子のこの顔、この表情。思いつめた、という以上に、鬼気迫ると言いたいほどの風貌だ(映画はモノクロである、念のため)。戦争を経験した世代でなければ表現しえない、とも思う。監督、脚本家、カメラマン、裏方の人たち、みな含めて太平洋戦争経験世代であったはずだ。だから煎じ詰めれば、若尾の表情は本人の才能失くしては生まれえいとはいえ、それだけではなく、映画に携わった人々みんなのエネルギーが結集してこそ、彼女の表情を十全に開花させることができたと思いたい。つまり、若尾の風貌を支えているのは、戦後の昭和50年代に生きる人々の、戦中戦後を生き抜いてきた力といってもいいのではないか。

映画の筋立てはこうだ。若尾演ずる貧しい農家の長女「おかね」は、仕事を求めて村から町に転居した一家を支えるため、裕福な呉服屋の隠居(殿山泰司)の囲われ者となる。隠居が死んでその遺言で多額の金銭を手にした「おかね」だが、間もなく病気がちの父も他界し、母の懇願で元の村に帰る。村人はみな「おかね」の過去を知っている。そんな中、模範青年の誉れ高い隣家の清助(田村高廣)だけは、彼女の過去を見ようとしない。二人は情を交わすようになり、所帯を持つ。

村人の白眼視に囲まれながら、しかし、だからこそ、夫婦だけの孤絶した情愛の生活のさなかに、一枚の赤紙が届く。(日露)戦争への従軍だ。清助は模範青年らしく出征するが、負傷して帰国。だが傷が癒えると、さらなる出征が待っている。せっかく戻った夫を手放したくない。そこで窮余の一策として衝動的にとった行動が、冒頭の五寸釘なのだ。

失明した清助は模範青年どころか非国民扱いだし、「おかね」にはムショ暮らしが待っている。2年の刑期を終えた「おかね」は盲目となった清作の家の敷居をまたぐ。夫の手による死を覚悟したうえでの行動であった。だが、案に相違して清助は、失明してはじめておまえの孤独を理解した、よくぞ戻ってくれた、と嗚咽する…

と、こう書くといかにもメロドラマだが、冒頭に書いたようにメロドラマに収まらない若尾の表情の凄みがある。それともう一つ、映画製作スタッフ総体を考えれば、日露戦争を太平洋戦争というフィルターによって濾過し相対化しているとどうしても感じてしまう。それは当然のことながら、映画に描かれた日露戦争によって、逆に、太平洋戦争がスクリーンの向こう側に映っているということでもある。映画の冒頭で、呉の軍港らしき造船所を見下ろす高台から「おかね」が険しい顔立ちで造船所を凝視する、その暗い眼差しには、日露戦争と太平洋戦争を重ねて「戦争」を見つめる女たちの心が震えて見えるようだ。

むさしまる