3つ年上の幼馴染マー坊は無類の映画好きだ。もともとはモデルガンおたくで、映画にのめりこんだのは、ジョン・ウェインの雄姿が取りついたせいじゃないだろうか。小太りの体にのっかった丸顔が楽しそうに西部劇の名シーンを次から次へと再現してゆく、その姿を、その表情を、少年時代のわたしは飽かず眺めていたことがある。

話の仕方は淀川長春をもっと庶民的でコミカルにした感じ。理念的、分析的な体系化、こむずかしいことは一切なし。ともかく、映画が好きで好きでたまらない、という喜びを体じゅうで発散させながら語る。そこで女がプイと横向いてすねながらね…こう体をよじってさ…というような身振り付きで一作の映画を語りきってしまうその再現力、すごかったなあ! 退職後、どこかのラジオの映画ファン向け放送番組を担当したと聞いた。さもありなん。

フェリーニの映画『アマルコルド』を観終わって(初見ではないのだが)、いの一番に思い起こしたのは、このマー坊の顔である。映画の醍醐味を掛け値なしに味わうこと、それはわたしにとって、映画を語るマー坊の顔を眺めるのに等しい。

さて、今更ながらだが、『アマルコルド』の豊かさには驚かされた。綿毛の舞う春に始まり、再び綿毛の舞う翌春のなかに、ひとつの港町とひとつの時代が息づく。魔女の火あぶり、学校の悪ガキどもの悪戯、脈絡なく闖入するオートバイ、ファシスト党員の示威行進、タバコ屋の叔母さんの上半身のド迫力、雪降る中に花開くクジャクの羽、木登りおじさんのお漏らし… これらのひとつひとつが、さながら短編小説のように、それぞれひとつの世界を形作り、全体が大きな伽藍なのだ。

書き残した、とびぬけて大事なシーンがある。夜の海に出現する超大型客船のそれだ。町の人々がこぞって、待ちに待った巨艦である。眼前を覆いつくすようなその巨体が煙をモクモク吐き出しながら迫るとき、皆の感激は頂点に達し、感極まって涙まで流す。もっとも、よく見れば、船が張子の虎ならぬ、まがい物であることは明瞭だ。しかし、船が本物か否かはじつはどうでもいい。人々の感激が本物であれば、船もまた本物であるしかない。本物らしさは、対象となるモノそのものにあるのではなく、対象を受け止める人の心にあるということをこの映画は教えてくれる。

役者は主人公のマガリ・ノエルを除いてほとんどがイタリア人。彼らの陽気さと人懐こさと軽薄さと(先入観かもしれないが…)がこの映画を支えているのかもしれない。イタリアに行きたくなってくる、無性に。さもなきゃ、久しぶりにマー坊に会って、この『アマルコルド』を語る姿を眺めたい。

1973年イタリア制作
監督:フェリーニ
音楽:ニーノ・ロータ

むさしまる