「国語」は国民をつくる(のか?)

『パリ20区、僕たちのクラス』(2010)という作品は、移民の流入にあえぐヨーロッパの大都市の現状を切り取って秀逸だ。多文化主義などというお題目をとなえるより、こういう映画を観て日本の移民について考えるのもいいのではないだろうか。

舞台はパリのある中学校で、そこの教師と受け持ちの24人の生徒との交流というより、物心がついて社会の理不尽さに敏感になった中学生との丁々発止のやりとりが見せ場のひとつである。

いかにもフランス人らしい、ちょっと神経質で切れやすい教師役を演じたフランソワ・ベゴドーは作家兼評論家で、この映画の原作となった『教室へ』は本人の教員としての実体験を小説化したものだ。生徒役は20区に隣接する10区の実際の中学生で、一年間の演技指導を受けてから撮影したといわれる。

この中学生の生意気さ加減がなんともいい。どうやら、成績のいい子にダメ生徒を演じさせ、そうでもない子にお利巧さん役をふったらしい。映画にでてくる彼女らは可愛げのないあの年ごろの女子中学生の面目躍如だが、本人たちは、ふだんと真逆の反抗的人間を演じる自分をどう感じたのだろうか。

ここで思いだすのは、ブラジルのある暴力映画を撮った監督が語ったこんなことばである。「いちばんおとなしい子にもっとも残虐な子供の役をさせたのです。そしたら、殴ったり蹴ったりするときの仕草は、これこそまさに表現したい暴力そのものという感じで、大成功でした」

そもそも、今の自分と正反対の人間、とまではいかなくとも、自分とは違った人間になれたら、と夢見たことのない人などいるだろうか? おそらく中学から高校にかけては、その欲望がもっとも激しく燃えるときだろう。そんな欲望をうまく利用したことが、生徒たちの演技を、ひいては映画を成功にみちびいたようだ。

さて、その中学生たちの顔立ちだが、顔立ちや皮膚の色合いからして、間違いなく多様な人種が混在している。国際都市というより、旧植民地帝国の首都というにふさわしい混在ぶりだ。欧米系、アラブ系、アフリカ系、アジア系と少なくとも、これだけはある。この多様性はパリのなかでも郊外に近く、移民の多い20区に顕著だといわれる。テロが多いのもこの地区周辺である。

映画にでてくる授業風景はすべて、ベゴドー先生のフランス語のクラス(つまり日本でいう「国語」のクラス)である。俗語ばかりしゃべる生徒たちに、先生は七面倒くさいフランス語の過去形の活用を教えようとする。そんなものは一生使う機会がないからムダ、と反発する悪童連中を、教師側のどこか偽善的な論理で説得しようとする光景は、日本でもお目にかかれそう。

しかし、よく考えれば、正しいフランス語こそ「正統なフランス人」を作りあげる必須アイテムなのだ。俗語ばかりでは「正しい」フランス人になれない。とりわけ移民には、なによりも純度の高い「国語」を話すことこそが国民であることの証明になる。植民地政策の思わぬ落とし子がここでも生きている、そんなことを感じさせる秀作であった。

2008年 フランス映画 フランソワ・ベゴドー原作
監督 ローラン・カンテ

むさしまる