むさしまるのこぼれ話 第45話 歳月は等しからず

『精神0』(監督想田和弘、2020年)の冒頭で精神科医の山本晶知(当時82歳)が最初にむかえる患者の顔は、たしかに見覚えがあった。医師を食い入るように見つめる目は、2008年の前作『精神』のときに見せた、どこか不安を隠しきれない、あの生真面目な相貌の青年のものと寸分違わない。伝え聞くところによると、わたしたちの肉体のなかでもっとも風雪に耐えるのは目だという。

この目にからんで、のっけから脱線になるが、たとえば、フロベールの名作『感情教育』の有名なラストシーンが思い浮かぶ。主人公フレデリックは独身のまま45歳をむかえて、パリで一人暮らし。ある夕方、初老のアルヌー夫人(おそらく50歳を少し越えたあたり)が訪ねてくる。二十数年ぶりの再会である。フレデリックはかつて夫人を熱愛し、夫人も彼を憎からず思っていたのだが、二人の関係は深まることなく終わっていた。夫人は夫の破産を機に、田舎の奥地で暮らしている。

この日、まさに「夜の帳が落ちるころ」、アルヌー夫人はドレスにヴェールのついた帽子をかぶった姿で、フレデリック宅のドアのまえに現れる。彼女はフレデリックの手をとり、相手の顔がよく見えるようにと窓辺へいざなう。この時、男のほうに彼女がどう見えているか、こう書いてある。

「たそがれの薄暗がりのなかで、彼には、夫人の顔をおおっている黒いレースのヴェール越しに、その目しか見えなかった」

いうまでもなく、「目しか見えない」時間帯を夫人(=フロベール)は選んで訪れたのである。そして、かつての艶めいた場面を思い出しつつ、夫人が当時のフレデリックへの慕情を告白すると、男のほうは、二十数年前の夫人の姿を幻視し、「官能への衝動」を覚える。

青年の目に話をもどすと、わたしには彼のその「まなこ」が何にもまして印象的で、12年をへだてる両作の通奏低音のように感じられるのだ。と同時に、ロベール・ブレッソンの『バルタザール、どこへ行く』のある動物の目がいつも脳裏にダブって浮かぶ。その目はいわば時を越えた普遍性のごとく、中空に浮かんでいるようだ。

ところで、この普遍の「まなこ」は不変であるがゆえに、相対的に、肉体の他の部分の移ろいを浮き彫りにしてしまう。一番わかりやすいのは、髪に混じる白いものだろう。一目で、老けたな、と感じる。その次が、頬のあたりの膨らみだ。さらに、脂っ気を感じさせる皮膚の、ちょっと言語化しがたい疲れのようなもの、もある。衣服につつまれているから目に見えないけれども、中身の体躯はけしてやせ細ってはいないはずだ。これは主観的な思い込みかも知れないが、目立つほど口紅を塗った初老の母親がつきそっていることも、こうした歳月の経過の印象を強めているかもしれない。

むろん山本医師にしても、この時にあらがえるはずもなく、すでに髪は真っ白だ。家庭における日常生活での身の動きも、かなり大儀そうである(少し思わせぶりな編集だが、それらしい荒い呼吸音をマイクが拾っている)。ただ、少なくともこの時点では現役の医師なので、患者に語る言葉はよどみないし、語り口に限って言えば、円熟味を増したとさえいえるかもしれない。

しかし、山本医師の妻芳子さんの場合は、そうではない。映画の途中で2008年の前作『精神』撮影時の彼女の姿が映し出されるが、そのときの奥さんの身のこなしぶりと話し方は、かつての才女を彷彿とさせて余りある。今の彼女は、言葉少なに笑顔を浮かべながら、人のことばにうなずいているばかりだし、山中の墓参は、夫に手を引かれなければ、ままならない。なんという落差か。

青年にとっての12年と母親にとってのそれは同じではない。山本医師にとっての12年と妻芳子さんにとってのそれも異質だ。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年、人同じからず」と唐の詩人はいう。けれども、さらに、歳月は誰にも平等に流れるわけではない。

むさしまる