むさしまるのこぼれ話 その三十 香港(で)の終活

とある中国の殺風景な駅、人影のないプラットフォームで列車に乗る男。男は車窓に映る殺伐とした風景を眺めている。この男ロジャー・リーは仕事を終えて故郷のホンコンに帰るところだ。そして、病院で末期をむかえつつある(すでに病院から他界の知らせが届いている可能性もある)老家政婦の「桃(タオ)姐(タオおばさん?)」と暮らした生活を反芻し始める。リー家族は海外に暮らしていて、しばらく前からはロジャーとタオおばさんの二人暮らしである。  

タオおばさんは、11歳のときから60年間もリー家に住み込んで働いてきた。きれい好きかつ料理の達人という理想の家政婦である。ロジャーの回想の冒頭は、タオおばさんの食材選びからスタートする。お馴染みらしい八百屋の保存用冷蔵庫(冷蔵室)に、服を重ね着して入る。そこで老眼鏡をかけて一つ一つ吟味するのは、わずか数個のニンニクだけ。この八百屋では、ホレ!いつものバアさんだ!と、店員一同から、いくらか侮蔑のこもった好奇のまなざしを浴びる。

そのタオおばさんが脳卒中で倒れた。一命をとりとめるが脚に後遺症の残るタオおばさんは老人ホームに入る決意をかためる。しばらくして、おばさんは別の病に倒れる。入院先の病院の医師は余命わずかとロジャーに告げる。映画監督のロジャーは中国での仕事のため、数日ホンコンを留守にせざるをえない。こうして、冒頭に書いたシーンに戻るわけである。

映画の大部分はロジャーのえらんだ老人ホームで過ごすおばさんの姿である。この老人ホームの光景がけっこう生々しい。狭苦しい一人部屋、汚れた便所、入所者の意地汚さ、入所者とその家族とのトラブル、しかしその一方、ホンコンらしい人情などなど。そういえば、ホンコンの出生率はアジア最低の水準にあり、さらに返還後は、そしてとりわけ雨傘運動以後は、人口流出が激しい。出ていくのは若い世代が多いから、老人都市になるほかない。そのせいかどうか、老人ホームのある通りの外観までが妙にくすんでいる。

老人ホームでの生活、それはとりもなおさず終活なのであって、さほど遠くない人生の終焉への助走期間だから、くすんで色あせるのは宿命である。だがタオおばさんの場合、雇い主ロジャーの控えめな援助と、負担を感じさせない気配りの繊細さが、少しずつ暖かい彩(いろど)りを与えてゆく。生涯独身を貫いたタオおばさんは、この晩年になってはじめて、母子関係の感触を味わったのではあるまいか。ロジャーを演じたアンディ・ラウの抑制された表情は、この疑似母子関係を演出して出色だ。どうやら彼はノーギャラで引き受けるほど、このロジャー役を気に入っていたらしい。

一応のテーマは、以上のごとく、タオおばさんの終活ということになろう。ただ、ホンコンの現状をある程度知ると、タオおばさんの晩年が香港そのものと否応なくダブって見えてしまう。冒頭の中国の風景にしても、いくら死を予感させるイメージ演出があるにしても、わざわざあんな田舎町の駅舎を映さなくても……と疑念がかすめる。ホンコン出身のわたしの知人は、故郷の政治状況のこととなるとじつに口が重い。一般人にしてそうだから、映画製作となればさらに神経を使うはずだが、さてどうだろう。

ところで忘れていた、映画の邦題は「桃(タオ)さんのしあわせ」(2011)である。下記の原題のほうが断然いい。

2011年製作/中国・香港合作
原題または英題:桃姐 A Simple Life  
監督アン・ホイ

むさしまる