むさしまるのこぼれ話 その三十一 君の名は「モ・クシュラ」
                      

暗いボクシングジムの一角。サンドバッグに黙々とパンチを打ち続ける女がいる。田舎を飛びだしてきたマギーである。世界チャンピオンを夢見る彼女は、有能なフランキー老人の指導をうけたくて、このジムに入会した。女は指導しないと拒絶するフランキーだが、マギーのしぶとさに根負けして受け入れる。『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)はこんなふうに始まる。

C級で連戦連勝したマギーは、B級の試合に挑むものの、パンチを顔面に浴び、試合続行不可能なほど大量の血が鼻から流れる。それでもマギーはあきらめきれず、止血名人と謳われたフランキーに応急処置をせがむ。かくて次のラウンドの開始直後、ラッシュが奏功して勝者となるのだが、その瞬間、フランキーは思わずゲール語で「モ・クシュラ」とつぶやく。彼はよほどこの表現が気に入ったらしく、マギーが英国チャンピオンと対戦するときには、Mo Cuishla(モ・クシュラ)と印字されたガウンを羽織らせてやる。マギーはここでも勝利をもぎとり(現地でモ・クシュラ!と声援が飛ぶのは、アイルランドびいきの声だろうか)、いよいよ念願の世界チャンピオンへの挑戦が実現する。

ここまでがいわば前半で、細部を別にすれば、スポ根物語によくあるサクセスストーリーである。問題はここからだ。

百万ドルをかけた試合はマギー有利で進むが、相手から卑劣な不意打ちによって頸椎を損傷、頭部以外の全身不随となってしまう。病院のベッドで呼吸器をつけたまま、マギーは徐々に衰えてゆく。床ずれが悪化して左足切断し、車椅子で動くこともなくなる。そしてある日、彼女は、父が愛犬にしたことを私にも、とフランキーにすがる。

これには伏線があるので、物語を少しさかのぼろう。ある試合のあと、マギーはフランキーとともに親孝行のつもりで帰郷するが、期待とは裏腹に母親と妹から冷たく追い払われる。その帰り道の車中、マギーはこんな話をする。子供の頃、足の悪いシェパード犬を飼っていたのだが、ある日、今はなき病気の父がその愛犬を車に乗せて森に出かけ、帰宅したときには父一人で、車の荷台にはスコップがおいてあった、と。

話を戻すと、もちろんフランキーはマギーの願いを峻拒する。ならばと、マギーは舌を噛んで二度までも自死を測る。いわゆる積極的安楽死に加担するか否か、フランキーを決断させたのは、おそらくマギーの「私は充分に生きた。その誇りを奪わないで」の願いだろう。

こうして、ある深夜、フランキーは病室に忍びこみ、呼吸器の管をはずし、劇薬を血管に流し込む。ただしその直前に、これまでマギーに尋ねられても巧妙に言い逃れていた「モ・クシュラ」の意味を伝える。「愛する人よ、おまえはわたしの血」と。そして、老フランキーは口づけする。額ではなく、その唇に。もはや首すら動かせぬマギーの頬に一粒の涙が伝わる。

フランキーの行為は許されるか否か、判断はそう簡単ではない。ただ少なくともこの映画のなかでは、許容されている。ジムの雑用係で相棒たるスクラップ老人のことばがその証拠だ。そもそもこの老人は、マギーとフランキーの過去をふくめたすべてを熟知する、いわばこの映画の黒幕であって、映画は彼のナレーションで進行する。マギーの才能を見いだしフランキーに勧めるだけでなく、マギーと同じようにタイトル戦で負けて片眼の視力を失ってもいる。そのスクラップ老人は、劇薬を用意するフランキーにむかって、こういって後押しする。「彼女に悔いはない。いい人生だった、と最後には思う。俺もそれなら満足だ」と。

その後、フランキーの姿は忽然と消える。スクラップがナレーションを通して、彼が行方不明になったことを事後的に伝えるだけである。しかし、行方不明という事実は重い。フランキーはどこにもいない存在を意図的に選んだ。社会的に自らを消失させた、つまり社会的死者となった。それは社会的自死にほかならない。しかもこの方法なら、自分と同じ自殺ほう助の人間を生む必要はない。こうしてフランキーは、おそらく贖罪としてマギーと同じ道を歩んでゆく。この身の処し方を知れば、積極的安楽死それ自体はともかく、少なくともフランキーという人間を許しうるのではないだろうか。

最後に、ボクシングジムの光景について一言。マギーが一人黙々と打ち込むサンドバックの背景として、壁に貼られたボクサー向け標語が、なにげなく映ることが数回ある。その文句がグッとくる。かくの如し。

Winners are simply
willing to do
what losers won’t

『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年)アメリカ映画
監督:クリント・イーストウッド
主演男優:クリント・イーストウッド
主演女優:ヒラリー・スワンク
助演男優:モーガン・フリーマン

むさしまる