真っ黒な画面のまま、ビブラフォンだかシンセサイザーだかよくわからない音が、やんわりと、ゆったりと、メロディーを奏ではじめる。やがて雨に濡れそぼったアスファルト道路の一郭が現れる。端っこのコンクリート部分が少しひび割れて欠け、そこに雨水がたまっている。そして登場するのが、そぼ降る雨のなかバス停前の長椅子に横たわる女性の姿だ。ここでナレーションが入り、女性がPMS(月経前症候群)を抱えていることを知らせる。三宅唱の映画「夜明けのすべて」(2023)はこんなふうに始まる。
近所のどこにでもある、ありきたりなひび割れたコンクリート、それはもちろんPMS(月経前症候群)の隠喩である。病というより一種の変調でしかないとわたしは思うのだが、ともかくそのPMSを慰撫するような、かといって情緒に走りすぎない程度のメロディーと音色からはじまるこの導入部は、じつに秀逸だ。これにエンドクレジットで背景に流れる場面が呼応する。
この場面もまた、下町でありそうな零細企業のお昼休みらしき光景で、キャッチボールする二人、チャリンコでどこかへ出かける誰か、植木鉢に水をやる社長などなど、そんな日常的なひとコマにすぎない。しかしこの日常性が全編を見終えたばかりのわたしには、自分でも予想外の感興を生んだ。それを多少とも汲みとってもらうには、やはり物語のあらましが必要だろう。
舞台は富士山が望めるようなどっかの下町。そこの町工場といっていいような、移動式プラネタリウムを製作している社員7,8人の栗田工業に、新入りの山添くんと藤沢さんがいる。山添くんはパニック障害、藤沢さんはPMSという、ともに面倒くさいものを抱えている。この二人が互いの障害を認知し、うまくやりすごす工夫をお互い提供しあい、最後には藤沢さんが母親の介護のために会社を去ってゆく、簡単にいえばそんな展開だ。
いうまでもなく主演はこの二人だ。けれども、大方の映画で期待されるような二人の感情的接近は、ない。この二人の絶妙な間合い、どこにでもいるような少しばかり素っ気ない若者と、どこにでもいるような気のよさそうな娘との、気は許しているけど深く思い入れることのない男女の、この距離感。こいつが、社員を含めたすべての登場人物たちをも支えている。
さて、予想外の感興を生んだ理由を説明しよう。あのエンドクレジットの光景には主役のひとりの藤沢さんが欠けている。にもかかわらず、普段と変わらぬ社員の光景が、まるで藤沢さんの存在などなかったかのように、ありきたりなPMSが存在しなかったかのように感じさせて、わたしは痺れたのだった。
むさしまる