むさしまるのこぼれ話 その三十五 馬から牛へ

去る一月、タル・ベーラが逝った。で、その遺作、『ニーチェの馬』(2011)を観た。「ニーチェの馬」という表現は、哲学者ニーチェがイタリアのトリノで倒れてひと騒動起こした一件をめぐる、架空のエピソードにちなむ。ニーチェはトリノの広場で御者に鞭打たれる馬車馬に駆け寄って泣き崩れ、その後精神を崩壊させた、という。この映画の原題がThe Turin Horse 「トリノの馬」となっているゆえんだ。

映画は上記の馬のその後を描くという設定で、一日ごとの生活が6日にわたって綴られる。6日とは、創世記にある神による6日間の創造の反転形だろうか、つまり終末にむかう6日。だから、休日の7日目はない。

映画は全編を通じて、肌寒い曇天のなかを風が吹きすさぶ。冒頭は馬を鞭打つ老人と、汗みずくであえぎ、目をぎょろつかせる馬がしばらく画面を支配する。その後は、荒野にポツンと立っている古屋での、老人と娘との代り映えしない、とはいえ少しだけ何かがいつもと違う日常が繰り返される。片手の不自由な老人の着替えを手伝う娘、井戸水をくみにゆく娘、薪が燃えるかまど、食事として一個の湯気の立つ大きなジャガイモを黙々と食べる父子。

訪問者といえば焼酎をもらいにきた隣村(?)の男とたまたま家のそばにやって来た荒くれ者たちだけ。会話は極端に少ない。となると、観る者の感覚を支配するのは、吹きすさぶ風の唸り、そして圧倒的なモノクロ画面になる。あらぶる自然の響きを聞き、人間の無言の営みを見つめていると、生きてゆくことの底にある何かこうゴロっとした塊に触れるような感触を覚える。

ところで、ニーチェと馬のエピソードには別のバージョンもあって、それはある峠でニーチェは坂道を荷車引いて苦しむ馬を見て、数百年、数千年にわたる人間による馬への虐待を想起して立ち直れないほどの苦悩を感じた、というものだ。なるほど、蒸気機関や電気の発明以前の人間の歴史は馬や牛を代表とする家畜の犠牲なくしては語れない。さらに、牛馬のごとく、馬車馬のごとく働く、という言い回しがあるように、牛と馬はこき使われたあげく我々の食肉に供されるから、人間としては頭を垂れざるをえぬ恩人というほかない。

かくて、馬の次は牛の話、映画『黒の牛』(2026年公開、監督蔦哲一朗)になるのだが、これは禅の「十牛図」に想をえた作品らしく、九個の断片(十番目は辻説法で、それは観客が映画館をでて浮世に戻ることで代用)からなる。『ニーチェの馬』と同じく、セリフは極端に少なく、大部分はモノクロだ。

あらすじは、山を追われた狩猟民の男(台湾の先住民族を意識していて、言語も台湾語のように思えた)が黒い牛と出会い、里の民家で農民として生きながら牛と心を通わせ、ある種の悟りをえてゆく、というもの。

こちらの自然も厳しい。篠突く雨のなかの農作業や戸外の活動をはばむ豪雪など里での生活は楽でない。それでも、『ニーチェの馬』の世界とはだいぶ違う。少なくとも豊かな水と草木にこと欠くことがない。周囲の自然は牛と共鳴するかのようで、いかにも温和なところを見せる。砂漠の周辺で生まれたキリスト教とガンジス河支流の近くで生まれた仏教、という東西の違いだろうか。

特筆しておきたいのは、台湾人男優リー・カンションの圧倒的存在感だ(田中泯の存在は、パターン化された観のある役柄もあって影が薄い)。雄弁なその表情ゆえにリー・カンションの顔立ちは、文明化から距離をおく狩猟民のそれから寺院に並ぶ仏像のそれになり、最後には牛の顔貌と重なってゆく。そうか、この映画は人間が労働をとおして牛になってゆく物語だったのか。

むさしまる