『サタンタンゴ』(監督タル・ベーラ)

ぐずつく空、ぬかるんだ地面、寒村の倉庫の薄汚れた壁… そんなモノクロームの映像が、文字どおり延々と、観ている者の感覚マヒを狙うかのように、続いてゆく。上映時間7時間18分。これは、わたし(たち)が慣れ親しんだ「時間」を解体する、解放感(と不安)に満ちた438分だった。

のっけから、カメラワークは右から左へと動く。いうまでもなく、時間的推移を示す通例の動きとは真逆だ。それを確認する如く、倉庫の壁に記された数字は105、104、103、という具合にひとつずつ数が減ってゆく。廃墟となった倉庫の華やかりし昔日を偲ばせようというのだろうか。だが、いつまでたっても往時が復活することはない。

時間は戻らない。戻らない代わりに繰り返す、あるいは、動かない。たとえば、ある男が野良に向かって放尿する後ろ姿のシーンがあるのだが、最初は少女が廃屋となった倉庫の2階から眺めるのに対し、2度目のシーンとなると、老医師が一回の窓から放尿男の後ろ姿を凝視する。同じシーンだから、実質的に時間は推移してない。少女にとっての眺める時間と老医師にとっての凝視する時間の質は同じではない、ということなのか。時間は幾重もの層になっているということなのか。

これと似た、時間にまつわる問いかけを誘うシーンが他にもある。同じ少女が、タンゴらしき音楽に合わせて男女が踊り狂っているホール内を、窓からのぞき込んでいる場面だ。最初のは、ホールをのぞく少女の正面の顔を、2度目はその後ろ姿だ。ホール内の踊りの時間とホール外の自然(木立に囲まれている)の時間は異なるのだろうか。それはともかく異色なのは、このシーンの踊りと音楽が延々同じものを反復する点である。さらに、この時間の滞留にくわえて、ホールの中には踊りまわる人々の喧騒を見ながらも、硬直したように不動の姿勢をとる人物が複数いる。彼らには生きていることを証明する動きはまったく、ない。時間が流れているようで流れてない。このホールは、生の空間だろうか、それとも死の空間だろうか。酔って同じ踊りを繰り返す男女はさながらダンス・マカーブルのごとくで、いっそ不気味でさえある。じつは、のぞき込んでいた少女は、このダンスに魅入られたかのように、いずれ死の世界に赴くのだが…

こうして、映画『サタンタンゴ』に没入している観客は時間感覚を奪われてゆく。その行き着いた先に開けるのが、写真のごとき光景である。ぬかるんだ田舎道を三人の男が遠ざかる。終始後ろ姿だ。時間は去るのだから。三人の後ろ姿が少しずつ、遠近法のヴァニシング・ポイントに向かうように、縮小してゆく。

ある不思議な感覚が訪れたのは、このときだ。豆粒のように見えてゆく後ろ姿は豆粒が小さくなればなるほど、時間の流れない静止画像に似通ってゆく。時間が流れているのか、止まっているか。そんな宙ぶらりんの不確かな感覚の中で、突如として、三人の後ろ姿を取り囲む背景が、今まで経験したことのない、まったく意味をもたない単なるモノとしての「風景」として迫ってきた。

三人の姿が点に近くなると時間の推移はほぼ感知できなくなる。つまり物語はほとんど停止し物語としての機能を失う。それはとりもなおさず物語の意味の喪失であり、物語を支える背景も意味のない「風景」となって……などと考えてみたが、こういうのは後付けの屁理屈かもしれない。確かな感覚として今でも残っているのは、後ろ姿を見つめることに疲れて、何とはなしに背景をながめ、また後ろ姿に戻り、飽きて背景を…と中心と周縁を行ったり来たりしている自分の視線の動きにうんざりしたことだ。そんな往復運動を繰り返しているうちに、<どこにも焦点を合わせない曖昧なまなざし>が思いもかけぬ引力をもって、無色透明のどこにもない「風景」をたぐり寄せたのかもしれない。

とにもかくにも、招いても来てくれそうにない「風景」があちらからやってきたことには、僥倖というか廻り合わせの不思議さを感ぜずにはいられない。『サタンタンゴ』に、多謝!

むさしまる