宇能鴻一郎が死んだ。だからどうした、という人も当今では多いかもしれん。けれども、昭和人間としちゃあ、「わたし、濡れちゃったんです」の名句をスポーツ紙の一角にいつも躍らせていた、あのエロ作家の大御所を忘れるわけにはいかない。もっとも、きわどい描写をチラ見するだけで、まともに読んだことはないんだが。
訃報を耳にして2,3日後、さる新聞の読書欄に、宇能の短編小説がなかなかいける、との紹介文があった。さっそく、今年一月一日発行の新潮文庫『アルマジロの手』を入手した。いや、なるほど粒ぞろいの短編集だ。とりわけ『蓮根ボーイ』がいい。少年期の性に対する初々しい好奇心と、身近な水辺でとれる生きものへの食欲とが、淡々とした筆致とからんで秀逸なのだ。
舞台は、終戦間もない北九州の炭鉱跡地あたり。廃坑だらけの土地が陥没して湿地帯となり、葦やらガマやら水草やらが繁茂する一部を利用して、蓮根栽培が盛んになる。物語は、この湿地帯を遊び場とし、かつ、生活の糧の一部をそこで得る中学生義一(ぎいち)の束の間の人生を描く。
美しい顔立ち、泥と垢に汚れた肌、ふしぎに赤い唇と頬、薄い胸、痛々しいほど細い手足で、一目で炭鉱離職者の子供だとわかる。これが義一の風貌である。いうまでもなく貧しい。くわえて重度の吃音症がある。つまり、ガキ大将たちの格好の標的になるタイプで、物語の冒頭は、悪ガキたちの性的イジメではじまる。
家庭には、小意地の悪い継母が待っている。学校にはあの悪ガキが手ぐすね引いている。だから、湿地帯でひとり草むらに憩うのが唯一の至福のひとときとなる。彼はそこで葦の新芽や蓮の実を口にし、そこで釣ったザリガニをゆでて食らう。湿地帯は金になるウナギを与えてもくれる。しかし、なにより実入りがいいのは、秋口の泥沼のなかに半裸でつかって蓮根を掘りあげる仕事だ。そんなきつい労働を引き受けるのは、貧しい炭鉱離職者の子供しかいない。
そうやって四六時中、蓮沼のなかに身を沈めていた義一は、ときどき、水鳥撃ちをする進駐軍の米兵に出くわす。彼らは、蓮の花や撃ち落とした獲物をとってこさせたり、あるいは、少年に淫らな真似をさせる代償に、銀紙につつまれた甘いチョコレートを投げてよこす。義一はそれをこっそり舐めながら、たとえようのない愉悦を味わう。
だが、少年の幸福は長続きしない。ある冬の朝、たくさんのカラスが舞う沼の中央あたりで、口からおびただしい血をあふれさせた彼の死体が見つかる。義一は結核を病んでいたのだった。
このように、一年にも満たない義一少年の記録である。きっと、満州から北九州にたどり着いた宇能少年の追憶が濃厚にからんでいるだろう。沼地の食物の味や蓮根の葉の揺らぎなどの描写には、実体験でしか得られない迫真性が感じとれる。しかも、戦後間もない食糧不足の時代に生きる、飢えた人間が噛みしめる自然物の味覚の新鮮さと、性に目覚めるころの少年の欲望とが、豊かに溶け合っている。雑多な価値観が混在した(あるいは既存の価値観が崩壊した)あの敗戦後が、かえってこんな良質の物語を生んだのか。
しかし、あらためて不思議に思う。宇能はもちろんのこと、エロ作家として名をはせた梶山李之も冨島健夫もみな、少年の頃に終戦を外地で迎えているのである。梶山と冨島は同じ朝鮮半島の京城(現ソウル)だし、宇能は満州だ。そして、三人とも純文学に近いところを出発点にしている。戦争を、それも植民地大国としての日本の敗北を、異国の地で味わわざるをえなかった少年たちには、小説という手段こそが最高の自己表現の場になったのだろうか。
さらなる不思議がある。いずれの作家も三者三様の形で純文学から大衆文学へと同じような道をたどっていることだ。変節とか堕落という切り方ではすまない、何かがあるような気がする。
むさしまる