おいしい本が読みたい 第49話 死者、忘るること勿れ

「最も暗い夜においても、私たちが何者であるのかを問う言葉があります。それは、この惑星に住む人々や生き物たちの一人称の視点の中に入り込むように想像するよう促す言葉であり、私たちを互いに結びつけるものです。
  この言葉を扱う文学は必然的に、ある種の体温を持っています。
 文学を読み、書くという営みは、同じく必然的に、生を破壊する全ての行為に真っ向から対立するということです。」

新聞紙上でこんな一節を目にした。とくに「ある種の体温」という表現に惹かれた。この作家の文体の体温を味わってみたい、と思った。作家の名はハン・ガン。だが、どの作品を読めばいいのか、しばし悩む。そこで思い出したのが、かつて朴氏から渡された、彼のお父さんの半生記のことだ。そこには、北から済州島(チェジュド)にたどり着き、4・3事件のときに命からがら日本に脱出した過酷な人生が語られていた。かくして手にとった本が、1948年の済州島4・3事件を語る『別れを告げない』(白水社、2024)だった。

ソウルに暮らす私(=キョンハ)の携帯に、友人インソンから連絡が入る。済州島で一人暮らしをしているはずのインソンなのに、今はソウルの病院に入院中だという。自宅で作業中に指を電動ノコギリで切断してしまい、急遽ソウルに運ばれたのだとか。病室に駆けつけた私に彼女はこんな頼みを託す。済州島の自宅に一羽の小鳥がいる。その鳥に必要な餌と水がもうじき枯渇するので、今から急いで済州島に行って世話をしてもらいたい、と。

親友のたっての願いを聞き入れて、私は一路、インソンの自宅を目指す。ところが、猛吹雪の悪天候。済州島内のバス便さえおぼつかない。インソン宅に到達するまでの悪戦苦闘ぶりはほとんど悪夢に近い。次から次へと障害が立ち現れ、かろうじてたどり着いたときには、すでに小鳥の命は尽きている。ここまでが、いわば前半部(目次は三部構成だが)で、以後の時系列はくずれ、筋はたどりがたい。そもそも小説全体において過去と現在の混在は無数にあり、時空間はらせん状にからまっている。

前半を象徴する雪、そして小鳥の死、それは済州島4・3事件のとき虐殺された死者たちの予示でもあり、反復でもある。たとえば、雪に囲まれた私は、「七十年前にこの島の学校のグラウンドで何百人もの子供たち、女たち、老人たちの顔が雪におおわれて見分けがつかなくなっていたとき」の雪と、「今、私の体に降りかかっている雪が同じでないと、いえるはずがない」とさえ感じる。インソンもまた、こういう。「こんなふうに雪が降ると思いだすの。その学校のグラウンドを夕方までさ迷った女の子とのことを」と。

「さ迷った女の子」とは、インソンの母ジョンシムその人である。母親の一家は姉と兄を除いて、4・3事件の犠牲者となった。幼かった母は姉とともに、校庭でなかば雪に埋もれた死者たちの中を、すでに体温を失っているがゆえに「溶けない雪」におおわれた顔を確認しながら、家族の亡骸を探したのだった。だから雪は、私とインソンとその母、さらに1948年に済州島で虐殺された死者たち、をつなぐ記憶の媒体である。

ところで、作者ハン・ガンによれば、この本のタイトル『別れを告げない』の意味は「哀悼を終わらせない」ということだという。4・3事件を手放すな、あの死者たちとつながれ、というわけだ。似たようなことを、大澤真幸が第二次大戦の死者たちときちんと対峙することがなければ(それは、靖国に祀ることとはまったく違う)未来を想像することはできない、というように表現している。そして、もう一人のノーベル文学賞受賞者イシグロもある対談で「記憶とは死に対する部分的な勝利です」と断言する。

ただし、ハン・ガンのこの小説に限っていえば、上記したように、過去と現在は時系列通りに並ばず、別々の字体となり、らせん状にからまって記述される。さらに、詩句のような、断片のような記述があったりして、文と文の間隙も余白も多い。だからこの意図的に織り上げたテクストは、どこか生命体のような様相を帯びる。この辺に「体温」の秘密があるのだろうか?

むさしまる