未完の点描画

誰にだって衝動買いはある。こちらの欲望が噴きこぼれそうなときに、あなたを待っていましたといわんばかりに、蠱惑的な外装の商品が目に飛びこんでくる。で、気がついたときには胸にそいつを抱きかかえているわけだ。この手の光景で今なお鮮明に残るシーンは、ジャズにはまっていた学生時代、高円寺のレコード屋でジャケットの写真が目に入ったときのこと。

『quiet kenny Kenny Dorham』(静かなるケニー)というトランぺッター、ケニー・ドーハムの盤だった。こんな表情のラッパ吹きなぞ見たことなかった。quietという形容詞がぴったり。音楽も期待どおりだ。もっとも、ケニーはうまいラッパ吹きではない。テクニックは大したことないし、高い音はからっきし駄目。それでも、こちらの内臓に届く音がした(少なくとも、このアルバムでは)。

同じような衝動買いは性懲りもなく繰り返しているのだが、先日、書店で『海炭市叙景』(佐藤泰志、小学館文庫)という文庫本の表紙が目にとまったとき、久々に、しかも何の脈絡もなく、あの懐かしいケニーの朴訥な顔がよみがえった。『海炭市叙景』という文字列にケニーの顔貌が重なるなんて、自分でも訳が分からない。とまれ、「海炭市」、「叙景」という二つの語群がめっぽう魅力的に映った。水彩画の遠景を思わせる「叙景」という表現もさることながら、「海炭市」という、どこにもない架空の町の響きが新鮮だった。海炭市のモデルは著者の故郷、函館らしい。しかし、海炭市と名付けたからには、想像上の町になる。

物語は二章構成で、それぞれ九編の短編からなり、冬から夏までの市民の生活が描かれる。冒頭の短編のタイトルは「まだ若い廃墟」で、初日の出を拝みにロープウェイで市内の山に登った兄妹の話だ。下山を安く上げようと、兄は妹だけロープウェイに乗せて、自分は徒歩で降りることになった。だが、ふもとの発着所前で待つ妹に、兄の姿が現われることはない。遭難か、あるいは自死か。

次の「青い空の下の海」なる短編では、海炭市から上京した青年が青函連絡船で故郷に帰る、その船上での情景に遭難した兄の話が登場する。歩いて下山途中で遭難らしい兄の死体が確認されたという情報が知らされる。この短編の主人公は兄妹とは何のかかわりもない。けれども、この短編では、主人公の脳裏に遭難した兄への想像がおおきくわだかまっている。3番目の短編「この海岸に」になると、遭難者への言及はさらに少なくなる。というより、ほぼないに等しい。主人公は同じ年格好の青年(ただし、妻と3歳の娘がいる)で、やはり首都から故郷の海炭市に新しい生活を求めてやってきた。その青年が公衆電話でダイヤルを回す情景のなかで、こんな一節が顔を出す。

 「ボックスからは、日曜大工の店がかげになって、山は見えなかった。正月にそこで奇妙な死に方をした青年のことなど、満夫のどの部分にも入ってはこなかった」

これでもう遭難者の兄とその妹の姿は登場してこない。たまに、市内の遠景として山が建物の間かなにかに、ふと浮かびあがるのみ。ただし、函館山のふもとのほうに霊園があることを知っている人は、第一章最後の短編「ここにある半島」が、その舞台になっていることに気づくだろう。

第二章の短編群の登場人物は、違反運転手と警官、草野球のピッチャー、立ち退きを拒否する農家の老婆、競馬におぼれるサラリーマン、レストランでの親子喧嘩、職安の職員、大麻草をさがす若い夫婦、別荘地の若者等々と、まったく交錯することのない主役たちである。

このように『海炭市叙景』は市井の生活を切り取った短編群から成り立っている。すでに記したように、最初の三篇にのみ、かすかな繋がりが感じられるだけで、ほかの短編は風土を共有するだけで、登場人物間のつながりは生まれない。それぞれの短編は、人物たちに内面に深く切り込むこともなく、むしろ淡々と、どこにでもある日常生活の風貌を個別に描き続けてゆく。この作品は、個々の短編を点のように描いた、ある種の点描画である。ただ残念なことに、この作品は予定の半分で途切れてしまった。作者佐藤が自死をとげたからである。それを思うと、後付けかもしれないが、冒頭の遭難(あるいは自死)した若者の短編がいよいよ謎めいてくる。おそらく何も知らずこの小説を読みはじめた読者は、遭難した若者にまつわる何かが、語られるはずだと期待するのではないだろうか。

期待は実現しない。実現しない代わりに、続編を想像する自由がわたしたちには残されている。自分流の叙景を完結させるのも一興ではあるまいか。

むさしまる