著名人の物故者が生まれるたびに新聞紙上に追悼文がのる。故人の業績を褒めたたえ、その人柄を懐かしみ、「一時代が終わった」と締めくくる。たぶん、そんな書式が暗黙のうちに出来上がっているのではないか。むろん死者に発言権はなく、いかに追悼文が的外れでも反論はできない。生き残って書く側のほうが勝ちなのだ、とりあえず。

では、生き残って追悼文を書く側が、好き勝手に書けるかといえば、政界、財界ならいざ知らず、こと文学界に関して言うと、それほど単純ではないらしい。たとえば「本の雑誌」6月号の特集は「追悼は文学である。だから、追悼を書く側も「文学」の範疇に入れられて、それはそれで人目が厳しい。

その特集に登場する嵐山光三郎の『追悼の達人』(中公文庫)が今回お勧めの目玉である。明治から昭和まで、49人の文学者に対する追悼文の集大成だ。これはこれで日本近代の立派な「裏文学史」となっている。夜、寝る前のひと時、枕元で一人か二人の死者への追悼を目で追う、これはあっていい仕草ではないか。

内容は、明治の尾崎紅葉を送る後藤宙外の「嗚呼紅葉逝けり」の美文調の始まり、小林秀雄に対する中上健次の、さすが中上と言うべき見事な追悼で締めくくられる。

「私も坂口安吾も、小説、物語という場に足場を築いた事は共通しているが、私のほうはさらに巨大な知の総体である小林秀雄氏を撃つ為、心ある近代現代の作家なら一度は通る上田秋成を擁立するように<やまとごころ>をとく本居宣長に対置し、文学ではなく物語(モノカタリ)、今、新たに言い直すなら小説としか言いようのないものを持ち出した(……)結局は、訃報の待ち受ける夜に向かって沈んだ怖ろしいほどの大きな赫(あか)い日が『来迎図』を語る小林秀雄氏の文章と重なって、崇高な思い出のように今はある」

こんな文を書かれたら、いや書いてもらったら、もって瞑すべしであろう。文学者の追悼は追悼する側の力量が問われるから怖い。筆者もそんな趣旨のことをどこかに書いていた。その筆者嵐山があとがきで、自分の父親の死に際して「なにも言葉を発しえないことを実感として知った」と記している。追悼の一方の極にはこれがある。わたしたちは、表現と沈黙のはざまを生きるしかない。

肉親ではないが、嵐山にはある意味で肉親以上であった人間に、深沢七郎がいる。その深沢を嵐山は「オヤカタ」と呼んで親しみ、かつ心酔した。しかし相手は、類まれな洞察力と不思議な思いやりとエゴイスティックなまでの果断さと傷つきやすさを合わせもつ、いわば稀代の奇人。文字で読むかぎりは、誰よりも魅力的だが、実生活を共にするには覚悟がいっただろう。心酔する師匠にいつ斬り捨てられるか分からない、緊張と情愛のからまる歳月を、嵐山は「小説 深沢七郎」の副題をもつ『桃仙人』(中公文庫)に結実させた。この書は、いってみれば嵐山による長い長い追悼文である。行間に漂う惜別の痛みは、一読の価値あり。

むさしまる

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