おいしい本が読みたい●第六話    師匠はつらいよ  

出藍の誉れ、一将功なりて万骨枯る、どっちが好みの表現かと聞かれたら、わたしは後者だ。だから、四方田犬彦『先生とわたし』(月刊新潮三月号)のような作品を読むと、ちょっと得意顔の弟子より、半分なきべそかいてる師匠のほうに気を惹かれてしまう。

弟子はいうまでもなく、「わたし」こと四方田犬彦、そして師匠は英文学界の碩学として著名な由良君美。いずれもインテリ度はきわめて高い。ただし、インテリが人間的にどうかというのは別の話であって、とりわけ大学に閉じこもる学者などは、いびつな欲望が肥大しがちだ。したがって、彼(女)らの物語はなかなか味わいがある。

『先生とわたし』の見どころは、大学生時代から師と仰いだ「由良君美」を、適切に相対化してついに「由良さん」と記すまでの、四方田の精神的遍歴である。ときに顔を覗かせる自画自賛にいつもの四方田を思い出してげんなり、という向きもあるだろうが、それを差し引いても、この私小説的物語は読ませる。それなりに真摯に苦悩しているからだ。

だが、先にも書いたように、私の関心は半泣きの先生のほうにある。碩学と謳われながら、東大では外様としていじめられ、方法論をもたぬ学者・批評家連を痛罵のはてに四面楚歌、そのはてにアルコール依存症となり、身も心もずたずたに。まるで無頼派の作家のような趣ではないか。ひらたく言えば、傷つきやすいええかっこしい男で、ある種の情が濃い。

そしてその情には、とりわけ四方田へのそれには、そこはかとないエロスがまぎれこんでいる。ともかく、弟子の著作への過剰な反応、酔ったうえでの暴力、そうしたいささか常軌を逸した行動の背景には、弟子の成長を素直に喜べない師匠の屈折した思いがあったはずだ。どうやら出藍の誉れは、なかなか師匠の誉れになってくれないらしい。

ところで、師匠のつらさで思い出すのは、『聖の青春』(大崎善生、講談社)の森信夫と村山聖の師弟関係である。こちらは実力だけがものを言うプロ将棋の世界だ。師匠森六段の実力はたいしたことはない。かたや弟子の村山はおそるべき終盤の読みと集中力を誇る怪童で、最初から勝負はついていた。

しかし、幸いなことに、森という棋士は弟子に追い越されることを恬として恥じない、およそ世間体とは無縁の不思議な人物だ。幼少で病に冒され、夭折を宿命づけられた村山聖の、不運を埋め合わせるかのように現れたのが、この天真爛漫な中年将棋指しだった。二人の関係はあるいは肉親以上の濃度だったろう。たとえば、冬の夜更けの大阪城公園を、将棋の練習をおえて、病気の体のためにとぼとぼ歩む中学生の弟子を、通りがかりの師匠が見つけ、街灯の下で、爪が伸びてないか手を取り心配る姿は、いっそ動物の親子のようだ。

怪童村山は、予想通りA級八段に駆け上り、二十八歳の若さで逝った。いつか森に、村山との歳月を書いてもらいたいものだ、師匠の悲しみを乗り越えて。

むさしまる