おいしい本が読みたい●第七話 時代小説がんばれ
じつは時代小説ファンである。とりわけ藤沢周平には目がない。だから彼の衣鉢をつぐと目される寡作の乙川優三郎も愛読する。このニ作家に熱いまなざしを注ぐのファンは少なくない。そんな愛好家同士で盃を傾けながら、「文学」の鎧をとりはらった楽しい座談となれば、一夜語り明かしても足りないはずだ。心に残る名品はさほどに多い。しかし、大好きな料理はまたの機会にとっておこう。
今回味わうのは第137回直木賞をとった松井今朝子『吉原手引草』である。花魁にかぎらず歓楽の世界の女性をあつかうのは、時代小説の十八番にちかく、それこそ無数の作品がある。いわば純文学における恋愛小説のごとく、江戸の傾城ものは時代小説の王道といっていい。そして、たいがいの作品が安手の人情話か結末見え見えの悲恋と堕す。たとえば『甘露梅 お針子おとせ吉原春秋』(宇江佐真理)のように。
そんな手垢のついた分野をあえて選んだ作者には、おそらく、ひとつの勝算があったのだろう、形式という勝算が。そして、あくまで時代小説かぎっての話だが、この形式の新味が直木賞をもたらしたとおぼしい。すなわち、いわゆる作者の客観的な叙述という手段を使わず、物語全体を主人公の関係者の証言によって構成したのだ。
裁判の調書に近いこのモンタージュ手法によって、人気花魁の人となりとその殺人事件はまさしく語られる。20名近い証人の文字通り主観的な断片があつまって、それなりに客観的な全体像を構成する仕組みだ。次第に核心にせまるよう証言が布置されていることはいうまでもない。
どうやら松井今朝子はこうした複数の視点というのが持ち味のようで、『辰巳屋疑獄』などにもその傾向がうかがえる。しかし、『吉原手引草』の場合には証言の複数性が効果を発揮したのにひきかえ、こちらの作品では、事件の関係者への作者の視点の分散が、人物像の不鮮明さをもたらした気がする。もっとも、人物より事件を描きたかったのかもしれない。
最後にひとこと、苦言を呈しておこう。賞をとって名が売れると、時代小説家はすぐ捕物帳などのシリーズ物に手を染める。松井もまたしかりで『一の富』からそれが始まった。悪いが、駄作である。手を染める理由はいわずと知れている。いま作家に必要なのは、書かない勇気ではないか。
むさしまる



