おいしい本が読みたい●第十三話 

                              故人に捧げたい物語  

     「フランスのある田舎では昔、誰かが亡くなったとき、
司祭が蜜蜂にそれをささやき、
村に野に告げるよう言ったという」  

去る11月に物故した思想家レヴィ=ストロースを追悼して、港千尋はこんな風習を想起した。司祭だからカトリックのはずだが、どこかケルト文化の残響が感じられる。草深い村落の生活には、いにしえの風俗がかすかに息づいていることもあるだろう。

ともかく、わたしはこの挿話を気に入った。誰がどんな形で亡くなろうとも、蜜蜂に伝えられたそのときから、人の死も自然の中のひとつの循環にすぎなくなるかのように思えるからだ。司祭がささやくからには蜜蜂もささやかねばならない。その「蜜蜂のささやき」が伝えてくれる訃報には、人の言葉には還元できないある慰撫する響きがこもっていてもいい。

フランスには別の伝承もある。南フランスのポー地方の言い伝えでは、雨上がりの空に虹がかかると、亡くなったばかりの人の霊がそこを渡ってゆくという。これまた、惜別の悲しみを穏やかに中和するような、いくぶん詩的なイマージュを誘う。虹の彼方にある世界への旅、という水平運動には、キリスト教的な上昇と異なる嗜好を読めるような気もする。

日本にもこうした伝承は数多あるに違いない。わたしも子供時分に祖母からそれらしき物語を聞いた気がするのだが、たとえば夜汽車の汽笛が聞こえたら魂が…とか、山裾の清水で足をふいて…とか、断片だけがちぎれて記憶に残っているだけで、全体の造形はもうできない。

そのかわり、身近な人が亡くなったときに必ず思い浮かべる物語がある。小川未明の『金の輪』である。

しばらく病床にあった男の子は小康をえて近所の遊び場にゆく。ふだん子供らで賑やかなそこは不思議に閑散としている。と、二輪車に乗り金の輪を手にした見知らぬ少年が、懐かしそうな笑顔をたたえてやってくる。次の日も同じことがくり返される。そしてその夜、男の子は高熱をだし身罷る。

早世の悲劇である。けれども、男の子の死の冷たさは、見も知らぬ少年の、輝く金色の輪と懐かしそうな笑みで、いくぶん和らいでくれる。ひょっとして、男の子の赴く世界に少年が待っているかもしれない。そうでなくとも、金の輪と笑みは、“寒くない”彼方の世界、を希望させる力に満ちているのではないか。

去る11月、じつは、わたしの恩師のひとりである青木やよひ先生が逝った。わたしは、小川未明のこの物語を思い浮かべながら、伊豆急に揺られた。今はただ、“寒くない”世界をお祈りするばかりである。

むさしまる