おいしい本が読みたい●第十七話 踊る女と描く男
梶山季之の純文学作品と聞いて、おやっと思う人は多いだろう。そう、相応の年配者にとって梶山は、宇野、川上とともに官能小説の御三家として名を馳せていたからである。だが、たしかに彼は、故郷ともいうべきソウルを舞台にした、『李朝残影』(文芸春秋)を遺している。しかも直木賞候補作となった佳作である。韓国併合100年のいま、これを読まぬ手はないとページをめくった。
物語は、植民地朝鮮の風俗を背景に、日本人の青年画家と李朝時代の宮廷舞踏を踊る美しい妓生(キーサン)との交情、そしてその突然の破局を描く。
見る側の男性(画家という職業はまさしく象徴的だ)と見られる側の女性という、支配―被支配の構造は、植民地を舞台にした物語では珍しくない。宗主国:男VS植民地:女という構図が恋愛(性的欲望)の構図と重なり合う。彼らの恋愛を成立させないことが、植民地支配者側に生まれた作者の、彼なりの主張、誠実さということになろうか。
内容に関して、ポストコロニアリズム風の切り口で分析するべき点は多々あろう。それは別の機会にということにして、ここでは気になった個所を一つだけ記す。画家が女性の踊りを目の当たりにして、絵のなかに封じ込めようと決意する、作中もっとも大事な場面だ。
「それは梅の梢から梢を飛び交う、鶯を模しているのであろうが、足捌きは少ないのに部屋いっぱいを舞っているような、そんな天衣無縫さが感じられるのも面白い」
この文の前後にも数行の描写があるが、見てのとおり特別変わった表現が使われているわけではない。つまり、きわめてありきたりな、あえて言えば凡庸な描写で終わっている。これに対し、画家が山寺で飲んだ「梨薑酒(リキョウシュ)」なる強い香気の酒を語る筆は、いくぶん通俗的な語句に侵されているとはいえ、はるかに生彩がある。描写全体も長い。むろん、この酒は彼女のイマージュとつらなってゆく。
「この梨薑酒は、口に含むと一瞬、清冽な香気が、ツーンと鼻を撲つのだった。その香りには、馥郁として咲き誇る沈丁花のような強さと、北風が渓谷を通り抜けるときのような冷徹さがある」
おそらく梶山は実際にこの銘酒を口にし、忘じがたく思うほど体が痺れたに違いない。逆に、肝心の宮廷舞踏は見ていない、すくなくとも、心を揺さぶられるほどの舞踏体験は、ない。肉体を通過しないことばは、やはりどこか頼りない。そんな根源的なことばの「力不足」が、ついにこの佳作を、作者の意図と裏腹に、植民地物語の枠内に圧しとどめた気がする。
むさしまる



