おいしい本が読みたい●第二十二話 夢見る力
プロボクシングが斜陽になって久しい。かつてあれほど華やかなスターを輩出したジムも、閑古鳥の鳴いているところが大半である。そのわりにジムの数だけは、けっこうある。いかにも場末が似合う、うらぶれたジムに、それでも好んで通う若者がいる。変わってるといえばたしかに変わっている。なにもこんな地味な、スポットライトの当たらない孤独なスポーツに、どこが面白くて毎日通うのだろう。
健康志向で週に一、二回というのなら話はわかる。だが、プロボクサーを目ざす者は日曜を除いて毎日のジム通いが当たり前だ。それを3、4年ほど続けてプロテストに合格できそうな実力がついたとトレーナーが判断すれば、テストを受けさせてもらえる。このときの不合格であきらめる人も多い。
晴れて合格した者はそのときからC級のプロボクサーだ。C級で4勝すればB級が待っている。しかし、大半はこの階級で勝ちを拾えなくて去ってゆく。4勝ははたから見るほど楽ではない。
そもそも小さなジムに所属していると試合そのものの数がかぎられる。資金力の豊富な、したがって自力で主催試合を組織できる有名ジムならいざ知らず、地方の、都会の場末の貧弱なジムは相手からのオファーを待つしかない。小ジム所属の選手は、待つことを知らなければならない。いつ来るとも知れぬオファーを。
一年に一回あるだろうか。あるいは二年に一回あるだろうか。そんなオファーを心待ちにしながら黙々と練習をこなすのが、プロボクサーの日常的光景である。もともとストイックでへこたれない奴もいる。それは才能というものだ。しかし、多くの凡庸な人間はともすればくじけそうになる。じっさい、ある日突然ふっと姿を見せなくなる者もけっこういる。かろうじて張っていた一本の細い線が、何かのはずみで切れたのだろうか。不思議なことに、負けたからやめます、と宣言して去っていった人より、なにもいわずに向こう側に行ってしまった人の方が、後姿がくっきりとこちらの脳裏に残るものだ。
では、凡庸なプロを抱えざるをえないジムはどう対処するか。ここで物をいうのはトレーナーという伯楽の力である。試合に負けても、なかなかオファーが来なくとも、いつか来るであろう次の試合を待つ力、それをじょうずに育ててやるのがトレーナーだ。待つ力、それはとりもなおさず、夢見る力である。いうまでもなく、負け試合のときがこの夢見る力がもっとも弱くなるときである。ということは負け試合の後こそ、トレーナーの腕の見せ所になるわけだ。
『遠いリング』(後藤正治著、岩波現代文庫)のなかで、筆者後藤に語った、エディ・タウンゼントの一節は、名伯楽と謳われたエディのトレーナー力、あるいは人間力を示して余りある。
「…負けたときが大事なの。勝ったときはいいの。世界チャンピオンになったら、みんなウォーッといってリングに上がりますね。だっこして肩車しますね。狂ったようになりますね。でもボクならない。一番最後に上がるの。よかったね、おめでとう、というだけよ。夜、ドンチャン騒ぎありますね。でもボク騒がない。ナイスファイト、また明日ね、といって帰るの。でも負けたときは最後までいます。病院にも行くの。ずっと一緒よ。それがトレーナーなの。わかります?」
わかる気がする。名伯楽は寄り添い、夢見る力の源を温めてやる。それでも選手の熱源が枯渇するときは、かならず訪れる。そのときは舞台を降りる道を、できるかぎりさわやかな道を、用意してやる。おそらくその道は、伯楽その人自身が人生を降りる道とつながっていることだろう。
むさしまる



