おいしい本が読みたい 第53話 郷愁鉄路
上にあげた漫画のひとコマを見たとき、いわく言い難い衝動が走った。友人に貸してもらった「つげ義春全集4」(1993年、筑摩書房)に載っている冒頭の作品「古本と少女」のなかの一場面である。作品自体が気に入ったというのではない。巻の代表作はといえば、背表紙に「李さん一家/海辺の叙景」と印刷されているから、この二作がそうなのだろうし、それでいいと思う。
例えば「海辺の叙景」の最終場面。見開き2ページを覆いつくす一幅の絵は、雨のそぼ降る海岸で波間を泳ぐ若者を娘が見つめる光景だ。クロールで泳ぐ若者と傘をさした後ろ姿の娘は真っ黒に塗りつぶされていて、画面の大半は低く垂れこめた雲と黒々とした波が占領している。この画面の迫力には、生半可な言葉では太刀打ちできないほどの凄みがある。
一方、「李さん一家」の最終場面は丸々1ページで、キャッチアップ画像で大まかな感じが分かってもらえそうだ。木造のボロ屋の窓枠のなかに並ぶ李さん一家四人。李さんは両目が離れたひょうきん顔で、色黒のグラマーと称される奥さんはドングリ眼。そして子供はそれぞれ異性の親に似ている。真っ黒な背景に浮かんだ四人は、まるで写真屋で撮った家族写真のようだが、これが実際の本の画面ではほぼ家全体と、さらにくすんだ空も描かれている。「海辺の叙景」とは違った味わいがあって、黒い窓枠に収まった李さん一家のヒューモアをかもす表情が、この世ならぬ世界へ誘い込むような引力をもつ。
これに比して、「古本と少女」の終わり方は、本好きの学生が古本屋の娘の気配りに感動するという、ほんのりとした味わいだ。コマのスペースも上記二作に比して三分の一程度で、パンチ力として劣る。それでも、わたしにとって、この作品集でもっとも印象深いのは線路を横断する少年の光景である。少年の後ろ姿といい線路を横断する歩道の曲がり具合といい、なんともイイ感じなのだ。
この光景を繰り返し眺めていて連想したのは、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の台湾映画『戀戀風塵』(1987)にでてくる台北駅の線路だった。田舎から上京した少女が、あやしい爺さんに誘われて線路を横断する光景がある。その後で頭に浮かんだのが、同じ監督の『冬冬(トントン)の夏休み』(1984)で、田舎の祖父母の家の裏手に線路があった。この線路は一種の境界をなしていて、そこを越えると子供の遊び場という異世界が広がっている。
そんなふうに思いを馳せているうちに、昨年、台湾の鉄道映画を観た記憶がよみがえった。てっきり忘れていたのだが、新宿Ksシネマでの台湾映画祭が満員で泣く泣く近くの武蔵野館で適当なものを物色しているうちに、たまたま上映中の台湾映画が一本あった。台湾南端の東側海岸線を走る鉄道の一区間(南廻線)の歴史と風俗を、鉄道に寄り添う人々の生活とともに描いたドキュメンタリーである。一番近代化の遅れていたその区間がいよいよ電化されることになり、それにともなって旧来の列車がお払い箱になる。その去るべき列車にかかわった人々の哀惜の情を映して秀逸だった。
その題名が「郷愁鉄路」(2023)だった。「郷愁鉄路」、この4文字が頭に浮かんだとき、「衝動」の正体が判明した。そうか、郷愁だったのか(ノスタルジーとはいわない)。というのも、わたしの生家は100人に満たぬような村落だが、奥地に行く道がそこから枝分かれしているため、豆粒みたいな駅があった(旅館さえ二軒あった)。わが家の裏手がその駅である。幼友達と鉄路に耳をくっつけて、列車がやってくる音を聞いたり、鉄路に石を並べたりしてこっぴどく叱られた(友達の父親がその駅の鉄道員だったおかげで、その程度の罰ですんだらしい)。トントンと同じくらいの、物心つきはじめる頃のことだった。
むさしまる



