『故郷の世界史 ―解放のインターナショナリズムへ』(キム・チョンミ著、現代企画室)という面白そうなタイトルに惹かれて手にしたら、意外な中身だった。いや、意外なだけでなく、前回の『敗北を抱きしめて』をめぐる駄文のコンセプトを見直さなければならないと思わされた。それは、日本の「敗北」を「解放」と捉えた人々がいたはずだ、というごく単純な、しかしながら、多数者の側に楽々と生きていると見えにくい、当たり前の認識だ。
キム・チョンミの著作に敗戦のことが書いてあるわけではない。しかし、アイヌ、台湾、朝鮮半島への侵略の歴史をたどり、部落解放運動の巨星ともいうべき松本治一郎の第二次大戦下の言動の問題視する『故郷の世界史』を読み進めていると、第二次大戦の「敗北」に敗者の美学を適用して安住してしまいそうなわたし(たち)の弱点が見えてくる。
『故郷の世界史』の冒頭部分には、日本の植民地主義の歴史とりわけ日本による台湾の先住民族弾圧の史実が事細かに取り上げられている。著者の出自を考えれば朝鮮半島の歴史に比重が大きくなって自然だと思えるが、そうなってはいない。あるいは、日本における、台湾先住民弾圧の認識が不足しているといいたいのだろうか。
著者の真意はともかく、霧社事件を多少調べて分かった気になっていたわたしは、ほとんど何も知らないことを気づかされて唖然とした。一例を挙げれば、『旧植民地文学の研究』で尾崎秀樹が甘く採点した後藤新平(尾崎一家の恩人でもある)、そしてまた現在の日本社会のなかで評価の高い為政者としての後藤新平、その後藤が台湾総督を補佐する民生局長として活躍する時代に、なんと多くの先住民族虐殺事件が発生していることか。
それにしても、キム・チョンミという在野の歴史家に台湾先住民族虐殺の歴史を教わる現状をどう考えたらいいのだろう。わたしたちは、彼女の著作を前にして襟を正さないわけにはゆくまい。
もうひとつ、残念なことがある。本書のなかでキム・チョンミは部落解放運動の松本治一郎とともに、『青年の環』における野間宏に批判の矢を放つのだが、その批判に対して日本人の文芸評論家や解放同盟の誰彼が反批判を繰り広げていることである。キム・チョンミの批判は多少直線的すぎるきらいがあることは確かだ。また、それに対する反批判もそれ自体はむしろ健全なありかただと思う。
問題は、その反批判の内容ではなく語り口である。文学を解せぬ素人が…、日本文学を味わえないよそ者が…といった口吻を呈していることなのだ。これが台湾先住民族の虐殺を支えていたメンタリティーではなかったのか。ポスト・コロニアリズムの時代だって? とんでもない。
むさしまる