21世紀の市民と市民的公共性――小さなユートピアをめざして
講師:篠原一、青木やよひ、北沢方邦
今回のセミナーでは、主に、篠原一先生を講師にお招きし、「シティズンシップと市民的公共性――小さなユートピアをめざして」についてご講話いただいた後、21世紀の市民や市民運動はどうあるべきか、むしろそれをどう築くべきか議論しました。
篠原先生によると、議会制民主主義はそれだけで民意を反映しえるものではなく、それを補完したり、また異議申し立てをするために、「市民としての資格や要件citizenship」を持った市民一人一人が活動し、行動し、コミュニケーションし、討議する上でできる「公共空間public sphere」が中核となってできる、市民的公共性の強い成熟した「市民社会civil society」を作っていく必要がある、とのこと。その公共空間を作るために有効な討議デモクラシーという制度の紹介と、グローバリゼーションの中でどのように公共空間を作っていくか、NGOの活躍などの説明をいただきました。
そのお話の中で特に心に残ったのは、いま、市民としての資格や要件citizenshipにおいて最も大事とされているのは、他者への尊重だということ。個々の市民が互いに他者を尊重し合って、交流していって、討議して合意を目指すことが大事であり、その互いに尊重し合う関係の中には“give and take” だけでなく、“give and give”の関係もあるということでした。権利と義務という関係概念は産業社会、生産社会の論理であり、環境問題や福祉、介護の問題などは、それだけでおさまるものではない、というお話は、考えてみれば当たり前のことなのですが、でも、生まれたときから産業社会、生産社会の論理の中で生きて来た私は、無意識のうちに、権利と義務は一体だと思っていたのでしょう。give and give が義務とまでは考えられていなかったし、逆に、take and takeの立場になった場合、対等に議論に参加できないような気がしていたように思います。それだけ、近代の効率主義に汚染されていたのだろうと思いますが、自分がどちらの立場に立っても、他者を尊重し、権力者に対しても批判的能力を持って、行動しながら生きていきたいと思いました。
講演後半には、日本人が政治的に淡泊であり、政治的なことに対して自分の意見を公にすることを嫌う国民であることが話題になりました。日本のように運動のない社会もめずらしいのだとか。黙っていることそれ自体が、いまの政治を肯定し、支えていることになるのですが、しかも、最近では、それを超えて、アナルゲシアといって、痛みを与えられている人が痛みを与えている本人に投票しにいったりするのだそうです。この状況をいかに打開していくか、こどもたちへのシティズンシップ教育が重要だ、いや、それ以前に親への教育が重要だと、講演後の座談でも大きな話題となりました。
セミナーが終わって1月近くが経ちました。主婦として、家事と育児の日々に戻った私は、子育てを中心とする今の私の時間軸と近代社会の時間軸とのあまりの隔たりに疲れ、当初の高揚した気持ちがかげり、時に、もの言わぬ市民の感覚にもどりつつある自分を感じます。でも、一人一人が日常生活で感じる違和感を見つめ、自らの怒りを公にすること、エモーションを大事にし、パッションに高め、よりよい社会を作るために市民として努力していくこと、それが必要であること、そして、討議デモクラシーやNGOなどそれらを可能にする手段があること、そういった手段を模索していくことが大切であることを、今回のセミナーで学びました。(そして時を同じくして、違う形ではありますが、アメリカの大統領選挙が一人一人のNoが社会を変えていく力となることを、示してくれました。)私もこれからの人生、自分なりのユートピアをかかげて、努力していきたいと思います。(林)